主日の福音2002.7.14
年間第15主日(マタイ13:1-23)
進歩した現代農業には当てはまらない(かも?)

これは野菜作りが楽しいという方の声ですが、「野菜作りは、釣りと違って、努力したことが必ず報われる」のだそうです。私は、山に登ることにも、畑を耕すことにも気持ちが向かないので、「確かに野菜作りは必ず報われる気がするなあ」と納得する以外にありません。
その意味で、今日のイエス様の種まきの話は、私にとってはいちばんの難問です。私には、理解できないことが多すぎます。いつもの説教だったら、イエス様のたとえの、大切なところを先に考えていきますが、今日は、小さな疑問をしばらく並べてみたいと思います。
はじめに、種をまく人のしていることが、私にはわかりません。「ある種は道端に落ちた」と言っています。皆さんは野菜の種を買ってきて、畑にまくとき、道端に落として鳥に食べられた経験がありますか?どうして道端に落ちたのか、私はわかりません。種は大切なものなのに、どうして落としたのでしょう?
「石だらけで土の少ないところに落ちた」。これも私は理解できません。石だらけで土の少ないところを、どうして避けなかったのでしょうか?ほかにも「茨のあいだに種が落ちた」と言います。どうしてそんなものを抜かずに種まきの仕事を始めるのでしょうか?私には分からないことばかりです。
きっと、野菜作りを趣味にしている皆さんも、ここまでは私の疑問をわかってくれると思います。自分だったら、種を道端に落としたりしないし、落としても拾うだろう。石だらけの場所は自分だったら選ばないし、雑草は抜いてから種はまくものだ。そう言われれば、不思議だなあ、と思いますよね(ねぇ)。
そう思って、どうしてイエス様のたとえの大切な意味を考える前に、小さなことでつまづくのだろうと不思議になって、当時の農業のことを調べたら、なあんだ、そういうことかとやっと分かりました。当時は、「この辺を畑にしようかなあ」とだいたいの予定を立てて、種をまいてから畑を耕していたのだそうです。
土地を休ませているあいだに、人がよく通ったところが道になっていったし、最初に種をまいてから耕すので、石の多い場所もあった。踏みしめて道になっている場所も、石の多い場所も、種をまいたあとに耕してしまうので、種をまく人は気にせずまいたのだそうです。
「だったら、当時の種まきは、今の時代の魚釣りと同じじゃん」と思ってしまいました。皆さんは変に思われるかもしれませんが、私は今の時代で言えば、魚釣りがイエス様の時代の農業と同じだなあと思いました。少し説明したいと思います。
まず、今の時代の魚釣りは、たいてい撒き餌をします。釣り針につけた餌だけでは魚を寄せることはできないので、撒き餌を、しかもたくさん使います。良い場所に撒き餌を打ちたいと思っても、違うところに飛んでいってしまいます。足元にこぼれてしまう撒き餌もあります。こういう餌は、お目当ての魚ではなくて、エサ取りの魚が食べてしまいますから、無駄になってしまう餌です。足元でこぼれたものは、カラスに食べられてしまうこともあります。
現代の魚釣りは、エサを一つも無駄にしないで釣るのではなくて、かなりのエサが無駄になってしまいますが、それでも本物のエサが潮の流れに乗ってよい場所までたどり着けば、あるときは100匹、あるときは66匹、あるときは30匹の大漁になるわけです。「耳のあるものは聞きなさい」。ほら、現代の魚釣りと同じでしょ?
皆さん、だまされたような顔をしていますが、現代の農業の考え方で今日のイエス様のたとえを当てはめようとしたら、当てはまらないかもしれませんね。今の時代、野菜の種は優秀ですし、肥料も使いますから、種が無駄になってしまうことはないと思います。私も自信はないですけど、どちらかと言うと、現代で言えば、釣りに似てないですか?と私は言いたいですね。
イエス様の時代、畑で働く人は「この土地でやってみよう」と思ったら、無駄になる部分も計算に入れて、努力し続けたようです。イエス様も、神の国を知らせる前に、弟子たちを集めました。
本当は、弟子を育てるよりも、弟子を持たないで一人で活動したほうが、簡単で、無駄がなかったと思います。理解するのが遅い弟子を育てるよりも自分ひとりで活動したほうが早いのに、それでも忍耐して育てました。最後まで残った12人の弟子は、イエス様という良い畑を離れなかったので、あとで何十倍も実を結んだのです。
イエス様の時代の種まきは、今の時代の農業と違っているかもしれませんが、良い土地に落ちた種は、今も昔も変わらない「良い実」を結びます。これが、今日イエス様がいちばん言いたいことだと思います。そしてその「良い土地」とは、実は、イエス様のことなのです。
良い土地に落ちた種は、何十倍にもなりました。私の中にもきっと、何十倍にもなる「良いもの」があると思います。それを与えてくださったのは、お父さんでしょうか、お母さんでしょうか?答えは神様だと思います。私に、良いものを与えてくださったのは神様。だから、生活の中で神様から離れない人は、大きな実を結ぶのではないでしょうか?
良い土地から離れなかった種が、何十倍も実をつけたように、神様から離れない人は、何十倍も役に立つのだと思います。もう一度、生活を思い出してみましょう。私は、神様から離れた生活をしていませんか?お祈りをしない、感謝をしない、人を許してあげない。こんな生活は、神様から離れた生活です。
よく考えて、神様から離れない生活を目指しましょう。私たちは一人ひとり、何十倍も実を結ぶすばらしい種なのです。神様から離れないで、多くの人に何十倍も喜びを与える人になれるように、ミサの中で願いましょう。

来週の福音
年間第16主日(マタイ13:24-43)