主日の福音2002,7,7
年間第14主日(マタイ11:25-30)
あなたをほめたたえます

きょうの朗読は、これまでの10年の中で、もしかしたらいちばん朗読した聖書の箇所かも知れません。みなさんも、あるいは何度も聞いたことのある聖書かもしれません。
いったいどこでそんなに何度も読まれている聖書なのかというと、じつは、お葬式の時によく使われる聖書の箇所なんです。とくに、後半の言葉を読み返すと、思い出す人もいらっしゃるかと思います。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(28-30節)。
これまで、たくさんのお葬式に関わりましたから、この聖書も私なりに何度も思い巡らしたことになります。けれども、それでも葬儀の場面でふさわしい説教が出来ているかというと、なかなかうまくいかないなあといつも感じています。
いちばん気にしていることは、イエス様が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と仰っているところです。「だれでも来なさい」「休ませてあげよう」と仰るのですが、私は、「きっとイエス様が休ませてくださるに違いない」とは思っていても、イエス様になりかわって「だれでも私のもとに来なさい」と胸を張って言えるかというと、難しいかも知れません。
イエス様がそう仰っていることですから、私がおどおどしなくてもよいわけですが、今悲しみの中にあるご遺族の方々に、「だれでも私のもとに来なさい」と仰るイエス様の言葉に信頼してみようという思いを持ってくださるような、何か話が出来ればと、いつも念じております。
もう一点、皆さんと考えてみたい箇所があります。すぐのところなんですが、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と仰います。皆さんもイエス様が天を仰いで、このように祈っておられる様子を思い描いてみましょう。イエス様が天の父にこうして祈っている間、イエス様は順風の中におられたのでしょうか?
それがそうでもないのですね。そのほんの少し前と、直後のことを確かめてみると、すぐ前では、悔い改めない町を叱った(11章20節から24節)とありますし、きょうのお話しのあとにも、ファリサイ派の人々が、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(12章14節)とあるわけです。どう見ても、イエス様の回りは危険な雰囲気になっていました。のんきに、と言っては悪いですが、祈っている場合ではなかったのです。
こういう、危険が迫っている中で、堂々と父なる神に祈るイエス様を、今日はとくに心に留めたいと思います。たくさんの人が命を狙っている中で、「父よ、あなたをほめたたえます」と仰るイエス様。危険を感じておられるのに、あえて人々には「休ませてあげよう」と仰るイエス様を、しっかり心に焼き付けたいと思います。
私たちは、しばしば目の前のことしか見えなくなって、動揺したり、失望したりすると「父よ、あなたをほめたたえます」と言えなくなってしまいます。あまりほかの用事に振り回されたくないときに誰かに用事を頼まれてその場を離れるとか、手が離せないときに子どもに何かをせがまれたとか、それはもうしょっちゅう似たようなことがあっていると思います。
イエス様は、まずご自分がお手本を示してくださいました。他人事ではない、自分に身の危険が迫っている中で、父なる神に賛美の祈りを唱えたのです。目の前まで、命を狙う人が近づいているときに、自分のことではなくて、重荷を負って悩み苦しんでいる私たちのために心を砕いてくださったのです。
私たちは日に何度、イエス様に心を上げているのでしょうか?「だれでも、わたしのもとに来なさい」と仰ったイエス様に祈ることで、これまでの自分中心の生き方を少し広げようと、心掛けているでしょうか?
イエス様のお手本に耳を傾けるために、今週はイエス様が仰った言葉をそのまま祈ってみましょう。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」。忙しいとき、気持ちがイライラしているとき、この言葉を唱えて、お願いされたことに応じてみましょう。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」。「だれでも来なさい」とはなかなか言いづらいのですが、思い切ってこの通り祈ることで、自分で自分に当てはめていた限度を取り外すことができるかも知れません。またイエス様は、そう願っているのかも知れません。
生活に、信仰がうまく解け合って、何をするにも、神さまのみ栄えのために向けていけるように、恵みを願ってまいりましょう。

来週の福音
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