主日の福音2002,6,30
年間第13主日(マタイ10:37-42)
喜びも苦しみも、あなたがくださるなら
明日皆さんにお祝いして頂く霊名のお祝いを前にして、柄にもなく緊張しております。霊名のお祝いは毎年お祝いして頂いておりますが、十周年と重なったら、どういうお祝いになるのだろう?そう思うととても予想つかなくて、今からそわそわしております。
婦人会の心のこもった料理はいくら宣伝しても足りないくらいですが、じつは金曜日にイサキ釣りに連れて行ってもらいまして、色を添えております。66匹釣り上げてまいりました。まだ申込みをされていない方がおられましたら、お魚食べるためでも結構ですから、申し込んでみてはいかがでしょうか?
さて福音に入りますが、きょうの福音書の鍵は、神様が与えるものには、きちんとした訳があるということなんです。だから私たちの返事は、「あなたが与えてくださるものでしたら、私はそのまま受け取りましょう」ということです。
このことを考えるために、二つの箇所を比べてみたいと思います。お説教のために読んでいた資料の中に、とても興味深いことが書かれていました。きょうの朗読の前半、「自分の十字架を担って・・」の「担う」という言葉と、後半、「預言者と同じ報いを受ける」の「(報いを)受ける」という言葉は、どちらももとの言葉が同じ(ギリシャ語の「ラムバノー」)なのだそうです。
「十字架を担う」というのは、苦しみを受けるということです。「報いを受ける」は、当然、報われるということで、普通に考えるとまったく正反対の取り合わせ、同じ受けるでも、苦しみを受けることと、喜ばしいものを受けることとは、どこにも通じ合うものなんてないような気がします。
ところが、苦しむということは、鍛えてもらうためにはしばしばついて回るものです。たとえば、習い事などは、繰り返し繰り返し練習して、ようやく何かが身に付いていきます。いつも間違うところは、上手に出来るようになるために、ほかの何倍も、もしかしたら何十倍も練習して、ようやくほかと同じくらいになるということもあるでしょう。
習い事の先生は、一見何の関係もないようなことをさせる時にも、ちゃんとした計算があります。人間ですら、ここで苦労してもらうのは、後できちんと身に付くためなんだよと、考えているとしたら、神様はなおさらのことではないでしょうか?
私事で申し訳ないのですが、十字架と報いとが同じ神から与えられる、そしてそれはしばしばちょうど良いときに与えられるという例を紹介したいと思います。
私が長崎の神学校の最上級生だったときのことです。自分の将来のことで深く悩んだ最初の出来事については、皆さんにもどこかでお話ししたと思いますが、もう一つ同じ時期に大きな体験をしました。名前は出しませんが、当時私は神学校の生徒副会長みたいな役割をしていました。生徒会長の同級生がいまして、彼は後輩を指導していく上でのいろんなぶつかり合いがありまして、一度大変なことになったんです。
消灯時間過ぎてからのことでした。どこから持ってきたのか、四・五人の後輩が木刀を持って、「おい、生徒会長、ちょっと屋上に来い」と連れて行ったんです。細かい部分は違っているかも知れません。私はただならない気配を感じまして、その中に飛び込んでいきました。真っ暗な屋上で、生徒会長を木刀で取り囲んでいるんです。
私は急いで校長神父様と副校長神父様に事の次第を知らせに走りました。副校長神父様がその場をなだめまして、全員を校長室に連れて行ったんですね。
「どうしてこんなことをしたんだ」
「私たちは退学になっても構いません。生徒会長のやり方が気にくわなかったんで、一発やってやろう、それから退学しようと思いました」
こんなやりとりでした。で、しばらくしーんと静かになったときに、何と私がその後輩たちに自分たちがどんなことをしていて、どんなに間違っているか、神父様になるというもっとみんな大きな目標を持っているんだから、もっと違うところにエネルギーを注ごうじゃないか、そんなことをとうとうとまくし立てたんです。
効果があったのかどうか知りません。そのあとみんないろんな飛び道具を神父様に預けまして、何とその場は丸く収まったのです。
一方では、私はもう自分の神学生生活に疲れて嫌気が差して、辞めて帰ってくるところまでしたわけですが、同じ年に、荒れ狂う後輩たちに熱心にこの道のすばらしさを説いて、もういっぺんやり直そうやとか何とか言っているわけです。
今振り返ると、ほんとうに不思議な体験でした。二つのこと、辞めたいと心底思ったことと、みんな一からやり直そうよと燃え上がったことが、同じ年でなかったら、きっと今の自分はなかったんだと思います。ですから、神様に感謝です。苦しみと、報い(喜び)を、同じ神様が与えてくださるんだと、今振り返ってみれば、教えてもらった一年だったんだと思います。そして、そのことに、司祭になって十年目に、これまでを振り返って始めて気が付いた。あーあのことは、こういう意味があったのか、あの苦しみは、別のあの報いとつながっていたんだと、あとで気が付くものなのですね。
十字架をお与えくださるのも、報いをお与えくださるのも、同じ神です。皆さんは、私とは別の苦しみがあることでしょう。けれども、同じ神が、報いも用意してくださることを信じましょう。苦しみの意味が分からず悲しんでいる中でも、神への信頼を捨てず、誰かに水一杯分のお世話をしてくだされば、神は必ず報いてくださるのですから。
来週の福音
年間第14主日(マタイ11:25-30)