主日の福音2002,6,16
年間第11主日(マタイ9:36-10:8)
ここでイエス様が言いたいことは何か

黙想会も無事に終わり、お話しは、いちおう耳から入れてきました。耳から入れてきましたなんて、変な言い方と思われるかも知れません。実はあまりよく分からなくて、録音したテープを、あとで繰り返し聞かないといけないなあと思っているところです。テープを聞くことで、新しい気づきがありましたら、お説教の中に盛り込んで分かち合いたいと思います。

さて今日の福音ですが、ちょっと見ると、あれっ?と思う部分があります。そこから入ってみましょう。イエス様が群衆を見渡して、深く憐れまれた、そこまではよろしいのですが、弟子たちにこう仰っています。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(9:37-38)。

別に何もおかしくない、と思われますか?「働き手を送ってください」と弟子たちに祈るように促したというのですが、私は、弟子たちこそ「働き手」だと思っていましたので、弟子たちはさぞ気分を害しただろうなあ、そう思ったのです。つまり、「えー?イエス様、私たちが働き手でしょう?私たちではいけないのですか?」と思ったのではないでしょうか。

けれども、疑問がわいたときの解決法は一つです。イエス様の仰っていることが正しいのだから、イエス様の側に立って考える、これしかありません。イエス様の側に立って考えようとすること、と言ったほうがいいでしょうか。

イエス様の側に立って物事を考えるためには、その後の振る舞いを重ね合わせて考えると良いでしょう。弟子たちに、「収穫は多いが、働き手が少ない」と仰ったあと、イエス様はどう振る舞ったか。イエス様は12人の弟子を選び、いろんな権能をお授けになって、送り出していきました。この流れだったら、私なら最初はこう言うでしょう。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、あなたたちを働き手として送るにあたって、収穫の主に私が祈ることにしよう」。

目の前の12人の弟子を、働き手として送っているわけです。傲慢な言い方ですが、中田神父の考えたように、どうしてイエス様ご自身が祈らなかったのでしょうか?ここでも大切なことは、イエス様に自分を合わせる態度です。どこか、中田神父の考えは間違っているはずなのです。

そう思ってあらためて考えてみると、あーなるほどと、別の流れに思い当たりました。次のような流れだったら、イエス様の言葉と振る舞いには筋が通ります。すなわち、働き手は、イエス様なのです。弟子たちの中で働くイエス様が、収穫をなさるまことの働き手なのです。

そうであれば、弟子たちが収穫の主に願うのは、こういう理由です。「父なる神よ、私は社会の中に遣わされていきます。私の中で働くキリストが、私を通して、多くの実りを父なる神にお返しできるようにしてください」。

このような祈りであれば、イエス様が弟子たちに与えた権限も、人々の中で行う不思議なしるし(病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払うなど)も、詰まるところはイエス様がとどまっておられるということの証なのだと思い当たります。

権限が与えられたのは、私が偉いからではありません。それはあなたの中に、イエス様がとどまっておられることのしるしなのです。不思議なわざができるのは、私が魔術師だからではなくて、イエス様がとどまっておられるしるしなのです。私を通して、人々がまことの働き手イエス様を認め、賛美するために、私は遣わされていくのです。

これで話の筋は通りました。イエス様が収穫を刈り取るまことの働き手です。今この時代にも、協力者が必要です。だからこそ、「収穫のために、働き手を送ってください。私の心に、私の暮らす社会に、まことの働き手イエスキリストを送ってください」と祈る必要があるのではないでしょうか。

今日、一つの疑問から出発して、あるべき本来の答えにたどり着いたと思います。疑問があれば、イエス様の側に立って考える。そのとき、私たちはふさわしい答えにたどり着きます。生活上の疑問も、悩んでいることも、判断に迷うことも、イエス様の側に立って考えようと七転八倒するとき、良い結果が得られるのだと思います。

私で良ければ、あなたを現場に運ぶ協力者になりたい。あれか、これか迷うとき、イエス様の側に立って物事を決めたい。そういう祈りを熱心に捧げながら、これからのミサに与っていくことにいたしましょう。

来週の福音
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