主日の福音2002,6,9
年間第10主日(マタイ9:9-13)
いけにえを捧げるときも憐れみを忘れず
金曜日におやしらずを抜きまして、痛くて痛くて、半分くらいしか口が開きません。ふがふが言いながらのお説教になりますが、ご勘弁ください。
今週から、教会の暦は「年間主日」に移ります。復活節を終わって、いくつかの「名前の付いた日曜日」も過ぎて、これからイエス様の誕生を待つ「待降節」までは普通の日曜日と言っていいでしょうか。
もちろん普通のと言っても、日曜日ごとに私たちは復活して、天に昇り、聖霊を与えてくださったイエス様をたたえ続けるという気持ちは忘れないようにしましょう。「御復活が終わったから、次はクリスマスにでもミサに行くか」こういう考えは、年間の季節の意味を取り違えていると思います。
今日の福音で、マタイという人がイエス様の弟子として招かれ、従っていく話が読まれました。仕事は「徴税人」、必要以上に取り立てている仲間もいましたし、取り立てた税を、自分たちの国を占領して押さえつけているローマに納めていたので、嫌われ者でした。徴税人は、ほとんど、罪人と同じ扱いだったわけです。
イエス様は、この徴税人を弟子に選んで、神様のための働きをさせようとします。徴税人が人からどう見られていたかは気にしていません。イエス様にとって、仕事は徴税人だったかも知れませんが、この人、マタイを弟子として選びたかったのです。
ところが、人々から正しい人と思われていたファリサイ派の人々はイエス様のやり方が分かりません。「なぜ?」と弟子たちに詰め寄ります。もちろん弟子たちも、どうして徴税人を弟子に選ぶのか分からないのです。そこでイエス様はきちんとお答えになりました。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」わたしというのは父なる神のことですが、その父なる神の思いをイエス様は伝えようとしているのですから、イエス様ご自身のお考えと言っても良いと思います。そこで、「憐れみ」に込められている意味と、「いけにえ」に込められている意味を考えてみましょう。
先に「いけにえ」から入りますが、イエス様の時代の人たちは、神殿でいろんな時にいけにえを捧げていました。いけにえは、しばしば動物を焼き尽くして捧げるわけですが、いけにえを捧げるためにも、自分が汚れていては捧げることもままなりません。ですから、「いけにえ」とは、自分は清さを保っていますよ、自分は正しい生活をしていますよという証だったわけです。
反対に、「憐れみ」に代表されているのは、神様の前に立つことさえ出来ない、自分は正しいですよなんて、とても言えません。そのことを謙虚に認めている人を表していると思います。だからといって何もしてはいけないというわけではなくて、いけにえを捧げても良いのですが、「わたしの正しさを堂々と捧げますよ」という態度ではなくて、「神様に喜んでもらえるか分かりませんが、どうぞ受け取ってください」という気持ちが、神様が求めているものなのではないでしょうか。
そう考えると、ファリサイ派の人々は、自分の正しさにいい気になって、他の人を見下してしまっていたのでしょう。「徴税人のどこに正しさがあるのか?正しくない人間が、神様の役に立つはずがあるだろうか?」という思い上がりです。
神様にとって、人間の正しさがどれほどのものでしょうか?むしろ、神様の目にとまるのは、見せびらかさず、他の人の弱さに同情してあげることのほうが、はるかに神様にとっては大切なのです。
イエス様は、ファリサイ派の人たちに、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」と仰います。行って学ぶ、つまり、自分の正しさにあぐらをかいていては、いつになっても神様が喜ぶ「憐れみ」の心は分からないから、出かけて、あなたが憐れみを示してあげなさい。そうして、あなた自身が、神様の憐れみに与れるようにしなさいと仰っているのです。
「行って、学びなさい」これは私たちにも同じように呼びかけられている言葉です。私は、自分の殻から一歩も出ないなら、きっと正しい人かも知れません。けれども、この人は自分よりも汚いとか、この人よりは自分はましと思っている人にもしも神様の憐れみが注がれたら、きっと許せないのだと思います。私が正しいのに、と思うことでしょう。
けれども、神様はマタイを呼んでくださるときに、自分の正しさを振りかざす人に用はありませんと周りの人に態度で示したのです。神様の憐れみが分かる人、分かった上で、他の人に伝えていこうと思う人を捜しているのです。
今週、イエス様はマタイのような人をお捜しだと思います。それは、正しさを看板に立てている人ではありません。自分の正しさよりも、神様の大きさ、広さに身をかがめる人を、今週一週間捜し回られるのです。
私は、イエス様の目にとまるでしょうか?イエス様の目にとまって、神の深い憐れみに触れて、それを他の人に伝えていけるでしょうか?
来週の福音朗読
年間第11主日(マタイ9:36-10:8)