主日の福音2002,6,2
キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)
キリストの思いまでよく消化して

皆さんにお知らせしましたが、祈祷書の55ページ、「始めの祈り」と「終わりの祈り」を使い始めることにしました。これと関係あることですが、中学生の勉強会でも、「始めの祈り」と「終わりの祈り」を祈りの中に取り入れるために、まずは暗記してもらうことにしたわけです。

その中学生、それぞれ暗唱できるくらい練習してから、一対一で向き合って、私の前で祈りを唱えてもらったわけですが、途中いろんなところで引っかかります。私も引っかかることは仕方のないことだと思っていますが、それにしてもどうしてそこで?と思ってしまいます。

「始めの祈りを唱えてみて」「始めの祈り。すべてを造り、治められる神よ、いつくしみ深いみ手の中で・・えっと・・何だっけ」「終わる」「あー、いつくしみ深いみ手の中で終わる・・」「始めの祈りで、何で終わるとね?」「え?あれ?おかしいなあ・・」。こっちが可笑しいわいと思うのですが、これで終わらないところがまたすごいのです。

「神父様、今度はちゃんと覚えました!」「うん、言ってごらん」「すべてを造り・・(中略)・・み手の中で始めるこの集いを・・何だったかなあ・・神父様、何だっけ?」「この集いを祝福し」「そうそう!この集いを祝福し・・ん〜何だったかなあ・・神父様?」「なんも覚えとらんやっか」「変だなあ・・」頭痛いです。

私の方も、ああ言いこう言い、一生懸命覚えたはずのものを引き出してあげようと懸命なのですが、言葉を本当には消化していないためか、すぐに落とし穴に引っかかってしまうのです。「始めの祈り」が、「始めにする祈り、始めるときの祈り」と分かっていれば、たとえ私が「いつくしみ深いみ手の中で『終わる』」と言っても、「あー、そうか、始めるだった」と考えつきそうなものです。

イタズラ好き・意地悪大好きの私でさえ、あのかわいい中学生を見れば、努力して頭の中に収めたものを何とか引き出してあげたい、本当の意味できちんと消化して、身につけさせたいと思います。

そうであれば、お造りになった人間一人ひとりを愛しておられる神が、私たちにお与えくださるものを、何とかしてきちんと消化させてあげたい、本当の意味で身につけさせたいと骨折られるのは、当然なのではないでしょうか。

今日、私たちはキリストの聖体の祝日を迎えております。父なる神は、時間と場所をお選びになって御子をこの世にお与えくださいました。そして御子キリストは、時間と場所を越えてご自分を与え続けるために、聖体の秘跡を定めてくださったわけです。

生身のイエス様とは、限られた場所、限られた時代の人しか出会うことは出来ませんが、イエス様はご聖体の中にとどまって、すべての人に、時間と場所を越えて出会ってくださるのです。

そこで問題なのは、私たちがご聖体の意味を、どれくらい消化しているか、どう理解しているかということです。答えから言ってしまうと、ご聖体の意味を深く理解しているなら、深く養われるし、理解が足りなければ、理解した分しか恵みに与れないということです。

イエス様は最後の晩餐の中で、ご自分の体と血を食べ物・飲み物としてお与えになる聖体の秘跡をお定めになりました。それは、記念として行うことで、すべての時代、すべての場所にいる人に神様の愛を届けるためでした。

そうであれば、聖体を拝領することで、私たちはイエス様の思いを理解し、イエス様の愛を、イエス様のお望みを、すべての時代、すべての場所に届けるように変わっていくことが求められているわけです。もちろんあなた自身をこのご聖体は養ってくださるけれども、同時に、この秘跡を残そうとしたわたしの思いを汲んで、動いて欲しいということなのです。

私たちは親から子に、信仰を伝えていきます。またそうやって、信仰を受け継いできました。それは、ご聖体を拝領して、よく理解した先祖たちが、次の時代の子どもたちも、イエス様に養われるものとなって欲しいから、そう思って信仰を伝えたのです。「とにかく信仰は守るもの」そう思って伝えたとしても、そこには、イエス様に養われてでなければ、まことの幸せにたどり着けないからという思いがあったのだと思います。

ご聖体によりよく近づくなら、イエス様の思いにも触れることになります。イエス様は時代と場所を越えて、ご自分を与えたい、ご自分に養われる人が増えて欲しいと願っておられます。イエス様の思いを理解しようと思えば、私も、何かの働きに招かれていると考えるのが自然な流れではないでしょうか?

少しでもいいから、イエス様がここにおられることを、聖体を通して今の時代にとどまっておられることを伝えたい。今日ここに集う私たち、聖体拝領を通して、イエス様の思いをよく味わい、消化したいものです。私の生活の中で、あの人に、イエス様を伝える。日々の聖体に養われた者として、その実りを多くの人に届けることが出来るように、続けて願っていくことにいたしましょう。