主日の福音2002,5,26
三位一体の主日(ヨハネ3:16-18)
神の神秘に触れて、使命を自覚する

今日は三位一体の主日です。キリスト教の神様の神秘の中でも、最も奥深い内容だと思いますが、精一杯考えてみることにいたしましょう。三位一体の神秘を考えることで、私たちは神様の奥深さにいくらかでも触れるのだと思います。

三位一体の神秘とは、「ご本性は唯一で、しかも父と子と聖霊というペルソナ(位格)である神」という説明なのですが、とてもじゃないですが、聞いただけでは理解できません。父と子と聖霊の「位」と言いましょうか、「格」と言ったらいいのでしょうか、これはそれぞれ異なりますが、神性は一つです、という説明を補っておきましょう。


これで分かっていただけるなら、本当は、わたしのほうが説明を願い求めたいくらいです。それで、私なりに、「父と子と聖霊という、三つの位が、どう考えたら完全に一つと言えるのか」黙想の結果を分かち合いたいと思います。

とっかかりは、今日の朗読福音書の最初の部分です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)。すぐにここまで説明は進みませんが、徐々に持って行きたいと思います。

先の箇所で、私が特に注目したいのは、「与える」という箇所です。神は、「与える」。神は、「与える神」である。まずはここから入ってみましょう。

「与える」という行いは、そんなにめずらしい行いではありません。私たちは人にいろんなことで何かを与えます。援助かも知れませんし、仕事を与えるとか、賞を与えるとか、チャンスを与えるとか、いろいろです。与える人は、相手が、それにふさわしいと思うので、与えます。褒美を与えるのは、相手が、褒美にふさわしいから与える。これは誰でも分かってもらえると思います。

ところで、普通の場合ではなくて、とても大切なものを与えるときはどうでしょうか。持ち物全部を与えるとか、ワザのすべてを授けるとか、とても大切なときは、相手が本当に信頼できるか、全部まかせても大丈夫か、よく考えると思います。考えて、これだったら、この人だったらと思ったときに、すべてを与えることでしょう。

それはお腹の赤ちゃんに、お母さんがすべてを与える姿と言っても良いと思います。お母さんは赤ちゃんにすべてを与え、赤ちゃんはお母さんを信頼して、すべてを受け取る。ただ単にへその緒でつながっているというのではなくて、お母さんと赤ちゃんは完全に一つなのではないでしょうか。

そこで、「与える」神様について考えてみたいのです。神様は満ちあふれる愛を、あふれ出る愛をお与えになります。受ける相手は、このあふれる愛を、余すところなく受けることのできるお方に違いありません。神の愛を、余すところなく受けることのできるお方は、人間ではなくて、やはり神ご自身なのではないでしょうか。

こうして、三位一体の神秘は、「与える神様」「あふれる愛をお与えになる神様」という一点を見つめるとき、いくらか理解できるような気がします。神は完全な愛を持っておられる方です。この愛をお与えになるのですが、受ける相手も、不完全ではいけません。余すところなく受け止めることのできるお方がいらっしゃって、神様の愛はその方に注がれていきます。

ここに、「父と子と聖霊」という三つの位があてはまるのです。父なる神はあふれる愛をお与えになります。御子である神は父なる神の愛を、余すところなく受け止めます。そして、神の愛は、それそのものが完全なのです。与える御父と、受ける御子、注がれる聖霊。この愛の交わりが、神様の中だけで完成されている姿が、三位一体の神のお姿なのです。精一杯考えて、こうなりました。

さて、この神様の中だけの完全な愛の交わりは、神様ご自身にとどまるだけではなくて、私たち人間にも与えられました。それは、完全な愛がたどり着くべくしてたどり着いた形かも知れません。

御父の完全な愛を御子が余すところなく受け取ることで、完全な交わりなのですが、完全な愛なら、不完全な人間をも包み込めるはず。私たちが余すところなく受け止めることが出来なくても、神は構わず「完全な愛」を注ぐことが出来るはず。その、はっきりしたしるしが、イエスキリストなのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。神の愛を受け取るには、人間は不十分なのですが、あえてそれを横に置いて、御子をお与えくださったところに、神の愛がもっと輝いたのです。

神様の愛が、御子イエスキリストという形で与えられました。それは、私たちを神の愛に招き入れるためです。神が、あふれる愛を与え続けるように、私たちも、愛する相手に、余すところなく愛を注ぐことを望んでおられます。この人はなんにも応えてくれないから、愛したくない、この子は親を悲しませてばかりなので、もう愛せない。そういう現実の中で、神の愛を受けた人として、それでも愛してあげる、愛し続けるように、招かれているのではないでしょうか。

三位一体の神の神秘をよくよく黙想することは、私たちへの招きを理解することにもつながります。私の暮らしの中で、愛したくない現実を愛していく力をいただけるように、父と子と聖霊の三位の神を称えることにいたしましょう。

来週の福音朗読
キリストの聖体(ヨハネ6:51-58