主日の福音2002,5,19
聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)
鍵を渡された人として振る舞う

今日私たちは、聖霊降臨の祝日をお迎えしております。先週積み残した宿題と結びつけるなら、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と仰った答えが、「聖霊降臨」ということです。イエス様は聖霊を私たちに送ってくださって、いつも共にいてくださるようにしてくださいました。

さてこの「聖霊が与えられた」、「私の内に聖霊が留まっている」ということを、どのあたりから考えたらよいでしょうか?なるほどそうかと、誰にでも分かるようなたとえはないものでしょうか。

福音書から、神が共にいてくださるその確かな「しるし」を探してみましょう。朗読された箇所は、弟子たちがユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけ、閉じこもっているところにイエス様が現れたという箇所でした。鍵がかけてあったのに、イエス様は入ってこられ、「平和があるように」(シャローム)と声をかけてくださいます。

実はこの「鍵」というのが、聖霊降臨の出来事を解く鍵、神が共にいてくださることを解き明かす鍵かなあ、と考えているところです。弟子たちは家の戸に、厳重に鍵をかけていました。それは同時に、心の扉にも鍵をかけていたわけですが、イエス様はその中に易々と入っておいでになります。イエス様が望んでその人と一緒にいたいとお考えになれば、人間がどんなに鍵をかけても、それはまったく妨げにならない、ということなのでしょう。

「家の鍵」と言いますと、私には思い出深い出来事があります。はじめての教会にお世話になるその日のことですが、さっそくいくつかの鍵を渡されまして、主任神父様からひと言、次のように言い渡されました。「これは全部の建物に共通の合い鍵ぞ。なくすなよ」。

何気ないひと言だったのかも知れませんが、私はその時こう受け止めたのでした。「お前にすべての建物の扉を開けて中にはいることを許す。信頼して鍵を渡したのだから、入るからには責任を持ちなさい」そう仰ったのだと思いました。もちろん、その教会を出るまでの五年間の間、渡されたマスターキーをなくすことはありませんでしたが、緊張して受け取ったのを今でも覚えています。

このように、家の鍵というのは、ただ中に入る鍵と言うだけではなくて、その鍵を持っている人は、中に入ることを許されている、信頼を受けている。そして同時に、責任もあるんだというような、たくさんのことを含んでいるのだと思います。ですから鍵をなくすということは、ただ入れないということだけではなくて、それ以上の責任がかかってくるわけですね。

さて、体験談を話してみましたが、弟子たちの家の鍵にもう一度戻ってみましょう。弟子たちはユダヤ人を入れないための鍵をかけていました。ですが、イエス様はよくできた鍵を持っていたのでしょう。恐れている弟子たちのところに入ってきます。そして、恐れている人の心を開ける鍵を差し込んで、聖霊を注いでくださって、その鍵をお委ねになったのです。いったん弟子たちの中に入ったあと、また弟子たちの心を閉ざして帰ったのではありませんでした。

鍵を使って、心を開き、その鍵を差したままイエス様は天にお戻りになった。開かれた心に注がれたものは何だったのでしょうか?言うまでもないことですが、それは聖霊、共にいてくださると約束なさったその答えを、イエス様は注いでくださったのです。

それはこういう意味です。まずはあなたの心を開いて、あなたに「聖霊」という鍵を預けます。その鍵はどんなに心を閉ざしている人の中にも入っていける鍵です。注がれた聖霊の導きに従って生きるなら、あなたの心はいつも神様に開かれていて、必要な助け・励まし・慰めを受けるでしょう。

同じように、聖霊を知らない多くの人に、人の心を開いてくださるこの鍵のことを知らせに行く。イエス様は私たちに鍵を預けたのですから、私たちはこの鍵を扱う責任があるのです。周りの人に、伝えてほしいのです。「あなたも聖霊という心を開く鍵をいただいて、神の導きを受けるように、心を開きませんか?」そう働きかけるように期待されていると思います。

その、周りの人に「聖霊」を知らせてまわるいちばんの近道をイエス様は教えておられます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。ゆるしは、その人に心を開いている何よりの証です。そして、赦してくださる神が、その場にいてくださる確かなしるしなのです。

言葉を並べることは難しいかも知れません。けれども、たとえば許し合うことで、心の扉を開く鍵「聖霊」を証ししていきましょう。今日降り注がれた聖霊が、わたしの心の奥の扉をも開いてくださるように、ミサの中で続けて祈っていくことにいたしましょう。

来週の福音朗読
三位一体の主日(ヨハネ3:16-18