主日の福音2002,4,21
復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)
良い羊は豊かな牧草を見つける

この前、歯医者に行きました。がまんできずに行ったわけですから、先生もびっくりして、「あー、虫歯が大きくなっていますね」と言われました。

実は歯医者の玄関まで、二度立ち寄って戻ってきて、三度目にようやく中まで入りました。一回目は、保険証を忘れて、あー良かったと思って帰ってきたわけです。きっと今日は歯医者に行く日じゃなかったんだと心の中で言って、ウキウキして帰ってきました。

二回目は、保険証は持っていたのですが、今日は予約がいっぱいなので、午後来てくださいと言われまして、もう嬉しくて「昼からですね」と確かめて帰りました。治療ができるから嬉しいわけじゃなくて、また延びたのが嬉しかったんです。「嫌だ。お母さん助けて!」と、玄関先で入ろうとしない子供のようなものです。

治療が始まると、もうあきらめるのですが、それまでは「入ろうか、戻ろうか」悩むわけです。「いやあ、明日でも大丈夫だろう」「来週からにしよう」なんて、適当な言い訳をつけて先延ばしするわけですが、いいことは何もありません。

さて、福音に入りたいのですが、今日は後半の9節から考えてみたいと思います。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」。特に考えてみたいことが一つあります。「私は、このイエス様の言葉を全面的に受け入れているだろうか、信じているだろうか?」ということです。

「わたしを通って入るものは救われる」。そうなんです。その通りなんですが、私たちの体験は、必ずそうとは限りません。歯医者の玄関を通って入れば、治療してもらって、大事に至らずに済みます。

分かっているんです。分かっていますが、言うことを聞かない子供のように、反対の態度を取るのです(反対のことをするのです)。来週から行けばいいじゃないか、今は痛くないから、痛くてガマンできなくなったら行こう。私は本当に歯医者に行きたいのでしょうか?

もちろん、すべての人が歯医者が嫌いなわけではないでしょう。定期的に歯の健康診断(検診)を受ける人もいるかも知れません。同じように、イエス様の招きを言葉の通り、すんなり受け入れる人もいらっしゃるでしょう。ですが、そうでない人は多い。イエスという門をひんぱんに出入りして牧草を見つける人はそう多くはないのです。

イエス様の言葉を素直に受け取るためには、どうしたらいいのでしょう。きっと、イエス様の言葉の通りに生きる人が増えればいいのだと思います。人は理屈や強制ではなかなか心を動かしませんが、生きた模範を見ると変わっていくものです。

ひとりでも多くの人が、「私は、イエス様という門を通って牧草を見つけて生きています。イエス様を受け入れて、私は本当の命にたどり着きました」。こんな人がひとりでも二人でも増えてくださることが、私たちの教会にとっても、また地域の皆さんへの証のためにも、大きな力になるのではないでしょうか。

イエス様という門を通って牧草を見つける羊がどんなにすばらしいか、一例だけ示しておきます。強盗は、イエス様に養われる羊を盗みに来るのです。イエス様に養われた羊が豊かだから、悪いことだけれども、盗みたいと思うほどすばらしいからです。イエス様に養われる羊は、盗みたいほどに恵みに満たされているのです。

理屈を言って、最後の最後にだけ門の牧草を食べに来る人もいるのかも知れません。すったもんだして、自分では最後まで門をくぐらずに、それでも周りの家族が連れてきてくれて、死ぬ前に門をくぐる人もいるでしょう。けれども、イエス様はいつも牧草を用意しています。いつも牧草を食べに来て欲しいのです。

普段から出入りして牧草を見つける幸いな羊が、たくさん増えますように、この教会の皆が、今日のイエス様の言葉をそのまま、文字通りに受け取ることができるように、互いに祈り合うことにいたしましょう。

来週の福音
復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)