主日の福音2002,4,14
復活節第3主日(ルカ24:13-35)
キリストがあなたの内に生きるように

今日は日曜日の礼拝で読まれる聖書の順番についてちょっとだけ話してから福音に入りたいと思います。日曜日には聖書から3つ朗読が選ばれていますが、第一朗読は、旧約聖書から取られ、第二朗読はおもに(当てはまらないこともありますが)使徒パウロの手紙から、そして第三朗読は必ず福音書から選ばれています。

これは、簡単に整理しますと、時間の流れに沿って朗読が選ばれているということです。旧約聖書は、イエス様がおいでになる前、救い主を待ち望む人々の物語です。第二朗読の、使徒パウロの手紙は、福音書が書き残される前の、イエス・キリストについての証し、そして福音書がその直後にできあがったという順番です。ですから、福音書を説くカギを、しばしば第二朗読に使われる使徒パウロの手紙に求めるというのは、そんなに当てはずれなことでもないと思います。

この点を、今日の福音書で考えてみましょう。今日の箇所で、物語を動かす力になっているのは、「イエスは生きておられる」という言葉なんですが、この、イエスが生きておられるという信仰を早くから解き明かしてくれたのが、福音書が書かれるちょっと前の書物、パウロの手紙なんです。

残念ながら、今日はパウロの手紙ではなくて、ペトロの手紙が朗読に選ばれておりますが、ガラテヤの信徒への手紙に、こう書いてあります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(2章20)。人間にとって、本当の意味で生きていると言えるのは、私の中で復活したイエス様が生きて活動しておられるときに当てはまる、ということなのでしょう。

福音書に戻りましょう。「イエスは生きておられる」という言葉は、今日の朗読のちょうど真ん中あたりにあります。「仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました……。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです」
(22-23節参照)

物語はここを土台にして動き出します。婦人たちはこの言葉を聞いて、喜び勇んで弟子たちのところに知らせに行きました。弟子たちはこの言葉、「イエスは生きておられる」を聞いて、急いで墓へ駆けつけました。そして、今日の物語で登場するエマオの弟子たちも、「イエスは生きておられるとはどういうことか?」と話し合い、論じ合って答えが分からないまま、弟子として留まるべきエルサレムを離れようとしていたのです。天使の一言が、彼らすべてを動かし始めました。

復活したイエス様はこの二人の話を聞いて、「何と物わかりが悪いのだ」とおしかりになって、聖書を説明してくださいました。そしてパンを割いてくださったときに、ようやく二人の弟子たちの目が開けました。二人は最初暗い顔をしていたのです。それは、生きていても死んだ人のようだったのですが、イエス様が聖書を解き明かしてくださり、パンを割いてお渡しになったとき、二人の中でイエス様が生き始めたのです。復活したイエス様が二人の心を燃やして、彼らは本当の意味で「生きる人」になったのです。

この二人の弟子たちは、私たちに「本当の意味で生きている人」について考えさせます。答えはすでに、聖パウロの手紙で紹介した通りなのですが、この弟子たちは、最初は暗い顔つきをしていたのです。それは、私たちの身近にいる、「希望を失った人」の姿ではないでしょうか。

目の輝きを失った人がいます。頼りにしていた人に裏切られ、最後の場所を探してさまよっている人もいます。そこまでではなくても、空しさを感じて一日が過ぎることだけを願って生きている人がいます。生き生きと暮らしている人ばかりではありません。希望を失って、死んだような毎日に堪えている人もいるわけです。

こんな世の中に、聖パウロは証しするのです。天使は告げるのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」「イエスは生きておられる」。人間の慰めや、物に頼って生きてきた生活がもう支えでなくなったとき、それでも信頼できる答えが、ここにあるのではないでしょうか。

イエスが生きておられることに気付いた二人の弟子は、すぐに動き出しました。「時を移さず出発して」弟子たちのところに体験したことを語りに行きました。彼らの証にも注意を留めましょう。二人がイエスだと分かったのは、「パンを割いてくださったとき」でした。この希望を失った中で、今もご自分の体を割いて分け与えてくださるイエス様を見て、彼らは「イエスは生きておられる」と分かったのです。

今日私たちは、こうしてミサの礼拝に集い、パンを割く様子を見、そのパンをいただきます。あの、「イエスは生きておられる」と気付いた場所に、実は私たちも同席しているのです。この礼拝に集い、割かれたパンをいただくとき、イエス様があなたの中で生きてくださって、あなたを本当の意味で生きる人に変えてくださるのです。

「イエスは生きておられる」。天使の言葉は、今も真実であるか、初めからうそであったか、どちらかです。それを証明するのは私たちです。何も難しいことではありません。「イエスは生きておられる」と、信じ、口ずさむ。ここから始めましょう。


態度で証明しましょう。イエス・キリストという、決してなくならない希望を持っているのですから、私たちは絶望しません。私の内に、悲しむ人をいたわり、弱っている人に手をさしのべたあのキリストが生きるように心がけましょう。この大島の中で、300人の「イエスは生きておられる」と証しする人となることができるように、ミサの中で恵みを願うことにいたしましょう。

来週のテキスト
復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)