復活の主日2002,3,31(1992,4,19)
復活の主日(ヨハネ20:1-9)
9年11ヶ月前に黙想しました(修正あり)

主の復活、おめでとうございます。今日は、主日の中の主日、日曜日の中の日曜日、教会の典礼がそこへと向けられている救いの神秘の核心であります。毎年共通して読まれるヨハネ福音書の朗読を味わいながら、私たちも登場人物と同じ喜びに与ることにいたしましょう。

福音記者は、物語を始めるための前置きを、割合詳しく書き残しました。「それは、週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちのことだった」。この言い回しの裏には、墓へとマグダラのマリアを急がせた福音記者の心情が描かれています。イエス様への深い愛情が、彼女をせき立てたのかも知れません。


けれども、彼女がそこで見たものは、彼女の予想した光景とは違っていました。彼女は、十字架につけられ、葬られたイエス様を見るはずでした。けれども彼女が実際に見たものは、空になった墓でした。彼女の予想は、完全にくつがえされたのでした。彼女は、墓におられるイエス様はきっとこうなってこうなっているだろうという当てがありましたが、それを得ることはできませんでした。


ここから、一つのことを考えることができるでしょう。それは、キリストを捜し求める私たちは、自分の思い描くキリスト像を求めてキリストを追い求めても、キリストに出会うことはできないということです。このような求め方でキリストを捜せば、期待はむなしく裏切られ、不安が心を占領するのです。


私たちは、これまでの生活で、自分が思い描くイエス様を、どこかに追い求めていたことはないでしょうか。「私はこんなに大きな悩みの中にいるから、神様は私が捜すところにいてくれるはずだ、いなければおかしい」。また、「私はこんなに一生懸命神の助けを求めているのに、神様は私の願いをいっこうに聞いてくださらない」というふうにです。


復活したキリストは、私を中心としたこれまでの信仰の歩みを、神中心の歩みに変えなさいと求めます。すなわち、イエス様との出会いを、自分の望む場所、時間の中で求めるのではなく、神が出会おうと望んでおられる場所に求めなさい、と諭すのです。福音に登場する婦人たちは、主は墓にいるはずだと思って行ったのに見あたらず、自分たちの当てが外れたので、途方に暮れたのです(
Lk 24:4)。

婦人たちの体験は、私たちにキリストとの新しい出会いを予感させます。私が予想を立てて、会いに行った場所でではなく、キリストが準備された場所と時間に、またそこでのみ、私たちはキリストと出会います。なぜなら、神との出会いは、私たちがそれを準備できるたぐいのものではないのであり、むしろ、どこでいつ会ってくださるかは、すべて、神がお決めになることなのです。


助祭に叙階される一年前、今から二年前のことですが(
2002年の説教の時点では、もう12年も前の話になってしまいました)、助祭叙階を願う書類を神学院の院長神父様に出そうか出すまいか、少し迷ったことがありました。私はその当時、生徒会長を務めていたこともあって、助祭になるための準備の期間を、有意義に過ごせなかったように思ったからです。そのことを私の指導司祭と相談しましたら、この司祭は次のようなことをおっしゃいました。

「あなたはあなたの考えで準備ができなかった、神と親しい時間をもてなかったとおっしゃっていますが、私はそうは思いません。あなたが生徒会長として学生のために奉仕した中で、あなたを奉仕の務めにふさわしいものとして、神様は準備しようとしておられたのではないでしょうか。神様には神様の計画があって、それに従ってあなたを準備したのです。どうぞそのことに信頼して、その上で決めるようにしてください」。


私の思い描く準備の一年ではなく、同じ一年を、神が望む計画に従って、神の望み通りに準備を進めておられた。神様のこのような不思議ななさり方を思うとき、空の墓の出来事が、ある意味で私たちの期待を裏切りつつも、キリストの計画に従って私たちをご自分との出会いの場に招いている、それに信頼してキリストが示される場へと赴かなければならない、そのようなことに思いいたるわけです。

私たちが、神が導こうとしておられる場所に導かれたいと望むとき、復活した主との出会いが可能になります。その時、私たちもヨハネと同じように、肉眼では空の墓を眺めても、信仰の目でキリストが復活し、新しい出会いに招いておられることに気付くことができるのではないでしょうか。新しい出会いの予感を、敏感に感じとることができるのではないでしょうか。

幸いに、私たちは主が復活されたことを信じています。罪と死に打ち勝たれたキリストに出会うために、私たちもキリストを無視する罪な生活を捨てて、キリストと向き合って生活する新しい生き方、復活に与るものとしての生き方を目指しましょう。「自分が自分が」と、自分中心の生活では、イエス様と出会うことはとても叶いません。

今日イエス様が会いたいと思う形は何だろうか?それを考える信者に変わっていきましょう。そのための恵みをミサの中で祈ってまいりましょう。

来週の福音 復活節第2主日(ヨハネ20:19-31