主日の福音2002,3,29
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
負債を全部免除してくださった
今日はイエス様の御死去を静かに偲ぶ一日です。イエス様はご自分から進んで命を差し出されたのですが、それがどれだけ大きな犠牲なのか、私たちはなかなか感じ取ることができません。初めに、私たちの経験から、イエス様の偉大なわざをいくらかでも感じ取る努力をしてみましょう。
長い長い朗読の中に自分を置いて聞いてくださっていれば、今私たちの目の前でイエス様がお亡くなりになったことを感じ取ることができたと思います。それは、見た目には当時の指導者たちの憎しみ・ねたみのために、群衆を扇動し、権力者を丸め込んでイエス様を死に追いやったのでした。そうであれば、イエス様は人々から命を奪われたのです。
人のいのちを奪ってしまった場合、私たちはどれくらいの償いが必要でしょうか?車の事故、会社の過酷な労働で命を奪ってしまった、あるいは憎しみに駆られて人をあやめてしまった。加害者は裁判を受け、補償をし、社会的な制裁を受け、ある時は刑務所に入ることにもなるでしょう。人のいのちを奪うとは、これほどの重大な過ちであるはずです。
さて、私たちは――もちろん直接には当時の人々ではありますが――今目の前でイエス様がお亡くなりになったのを目の当たりにしました。辛い言い方かも知れませんが、イエス様は人間の犯した罪を償うために命を捧げたのですから、罪を犯す私たちは、本当は加害者なのです。イエス様が死をもって私の罪を償ってくださったのですから、罪がなければ、イエス様が十字架にかかる理由もないのですから、私たちはやはり、責任を免れません。
人のいのちを奪った人の受ける制裁は、先に話した通りですが、さて私は、イエス様の命を奪った償いに、何かの補償をしたでしょうか?社会的な制裁を受けたり、刑務所に入ったりしたでしょうか?いっさい、そのようなことはしていないと思います。「いっさい」というのは言い過ぎかも知れませんが、イエス様の命を奪ったことを償うにふさわしい責任を、私たちは果たしておりません。また果たすこともできない。
そうです。もし正直に、私は自分の罪を許してもらうために、イエス様を死に追いやった、イエス様の命を奪ったと、正直に認めるなら、何かの償いをしなければならないはずです。社会であれば、何もしないでおくということは許されないのですから。出るべきところに出て、果たすべき責任を果たしてすら、なかなか許してもらえないのが現実の筈です。
そんな大変なことをした人間に、あわれな人間に、イエス様は「責任をとれ」とは仰いませんでした。御父も、「わたしの愛する独り子を返せ」とは仰いませんでした。ただ、黙って許してくださった。そして、イエス様はすべてにまさる栄光をお受けになりました。返せ、と言えば言えなくもない。それを、反対に、許して、さらに、救いをもたらしてくださった。これが、神のなさり方、神様が示してくださった愛なのではないでしょうか。
今日、あらためて十字架を眺め、礼拝いたします。十字架に、神様の愛を感じましょう。磔にされているイエス様は仰います。私は、あなたに返せとは言わない。だから、わたしが与える愛に飛び込んできなさい。私は今も、あなたを愛しています。
引き続き、盛式共同祈願と十字架の礼拝に移ることにいたしましょう。