主日の福音2002,3,24
受難の主日(マタイ27:11-54)
十字架の向こうに見るべきもの
いよいよ、主の復活をお迎えするための大切な一週間、聖なる一週間が始まりました。今日は、ミサの初めから枝を手に持って、イエス様のエルサレム入場を人々が歓迎した出来事を思い起こす儀式をしました。また、ただ今の福音書では、イエス様の御受難と御死去を朗読して、聖木曜日・聖金曜日の礼拝にあずかれない人のためにも、これからの出来事を先取りして思い起こすことができるように工夫されています。
この長い朗読の中で、今週をふさわしく過ごすために与えられた課題(テーマ)は何でしょうか。それは、「イエス様の御受難と御死去は、何のためのものでしたか?」ということです。この問いかけに一人ひとり答えることが、今日の長い朗読の中で私たちに求められていることだと思います。
まず、イエス様ご自身のお言葉から入っていきましょう。今日、イエス様自ら語られたお言葉は、見た目には何とも頼りない、二言だけです。「それは、あなたが言っていることです」「エリ、エリ、レバ、サバクタニ」。これではイエス様が何のためにご自分を死に渡されたのですかという問いの答えを探すのは難しいかも知れません。
本当は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を聞いて、答えにたどり着くはずなのですが、間違った答えにたどり着く危険もあります。もう少し言葉を補ってみたいと思います。
間違った答え、それは、「イエス様はみじめな最期を遂げるためにご自分を死に渡された」ということでしょう。実はイエス様のこの言葉は、詩編の第22篇を唱えていたとも言われています。詩編の第22篇については、プリントした紙を用意しましたので、一度声に出して朗読してもらえれば幸いです。
この詩編をお読みになれば、イエス様の言葉を聞いて失望したり、間違った答えにたどり着いたりはしないでしょう。あの言葉は、第22篇の中では出だしに過ぎず、詩編全体としては主なる神を賛美し、たたえる祈りになっているからです。イエス様はこのぎりぎりの時にさえ父なる神への信頼を失わず、詩編の祈りを唱えて御父を賛美していたのです。
このことだけでも、イエス様がご自身を死に渡されたのは、みじめな最後を遂げるためではないことは明らかです。そうではなく、すばらしいことのためにご自分を死に渡したので、ぎりぎりの時でも賛美することができたのです。イエス様はただ単に死ぬためにご自分を死に渡されたのではないのです。
では何のためでしょうか?それは、ひとことで言うなら、すべてにまさる栄光を受けるためでした。少し言葉を補って確かめましょう。一つは、今日の二番目の朗読から、一つは、別の場面でのイエス様ご自身の言葉から取りたいと思います。
フィリピの信徒への手紙の中で、聖パウロはイエス様がどこまでもへりくだったことを強調します。「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(8節参照)。それはまさに、「誰も見捨てられることのないために」すべての人よりも低くなられたのです。イエス様をののしった人を見捨てることもできたでしょう。十字架につけろと言った人をすべて切り捨てることもできたでしょう。けれども、すべての人を引き受けて救ってくださるために、これらの人々皆の僕になったのです。
かつてイエス様自身、こう語られました。「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20:27)。死に追いやった人々にさえも仕えて、皆の僕になったイエス様を、父なる神はすべてにまさる栄光で包まれます。その証が復活であり、昇天であり、聖霊降臨なのです。イエス様は、すべてにまさる栄光をお受けになるために、みずからを死に渡されたのです。
目の前で十字架に磔になられるイエス様。あーむごたらしい、あーかわいそうにという見方をしているなら、私たちは何も見えていません。その向こうに、はっきりと私たちの救いを見ましょう。イエス様がはっきり見ている栄光を、私たちも見ることにいたしましょう。