主日の福音2002,3,17
四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)
復活は十字架をとおっての栄光

とうとうと言いましょうか、いよいよと言いましょうか、大島磯の香ロードレースの日がやってきまして、今年も恥も外聞もなく走るわけですが、金曜日の練習では1時間1分かかりました。沿道の応援と、大勢の選手の中で走りますので、1分縮めて、1時間は切れるかな、と考えております。

となりにおられます酒井神父様は、見ておわかりと思いますが、いかにも練習を積んだなという体型をしております。今日走る一般成年男子の部は、若人の森から焼酎工場までの往復10キロなのですが、酒井神父様は今年の始め、熊本県の天草というところでフルマラソン、42.195キロを完走されたのだそうです。

かく言う私は、今日までにちゃんとした距離を2回走りました。たった2回なの?と驚き、心配するかも知れませんが、本人がいちばんよく知っております。2回じゃぜんぜん足りないのです。救急車の手配もした上で、走ろうかなあなんて思っております。

さらに輪をかけて心配なことが一つ増えました。田舎の母ちゃんが、三島丸で今この時間崎戸に向かっているらしいのです。今日のためにわざわざバイクをのせて応援に来るらしいんですね。恥ずかしいので、来ないでいいのに、いつまで立っても親は親、子は子なのでしょうか?

今日という日を、中田神父と酒井神父様とでは、ずいぶん違う形で迎えたのかなあと思っております。かたや、練習を欠かさず、今日のためというよりも、日々走り込んできた神父様。かたや、練習もせず、恥も省みず、話の種、新聞のネタのために走ろうかという私。同じ今日を迎えるのに、回り道のようであっても確実に歩いてくる人と、どうせその日は来るのだし、きつい目にあって練習するのも嫌だしと逃げ回って、いちばん良くない形で今日を迎える人。両極端と言ってもいいでしょうか?

さて、イエス様のこの地上での御生涯も、いよいよ最終に向かいつつあります。今日の福音では、ラザロをよみがえらせてくださいますが、ヨハネの福音書の中では、イエス様がこの世に向かって行われる奇跡は、これが最後と言うことになっております。その後は、弟子たちと最後の日々を過ごす中で、逮捕され、十字架に張り付けにされ、お亡くなりになって、三日目に復活なさいます。

ここまでのイエス様の歩みは、人間を救うという大きな目標に向かって、一歩一歩着実に進めてきた歩みでした。しばしば人々の無理解に遭い、多くの人がイエス様のもとを去っていき、最後には、12人の弟子たちさえ逃げ去っていく厳しい道のりだったのです。

見方によっては、回り道であったかも知れません。神様の力をもってすれば、苦しんで、また理解されずに、人々に捨てられてまでも地道な歩みをなさる必要はなかったかも知れません。けれども、そういうこともお考えになった上で、イエス様はあえて遠回りを、遠回りであっても確実な道を選ばれたのでした。

ラザロをよみがえらせるという、驚くべき奇跡であっても、信じない人々、心を頑なにする人々にとっては躓きのもととなる危険がありました。イエス様はマルタに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と仰いますが、憎む人たちであれば、「お前は、自分を何者だと思っているのか」と言い返すきっかけにしかならないからです。

そういう、回りくどい道をあえて選ばれて、イエス様は御生涯の最後の場面を迎えようとしております。くどいようですが、神様の力をもってすれば、ちょこっと地上にやってきて、「はい、救われなさい」と言って、御父のもとに帰ることもできたかも知れません。けれども、すべてのことを検討した上で、あえて、遠回りの道を、苦しんで苦しんで、人を救う道を選ばれたのです。

この生き方は、私たちへの問いかけでもあります。なーんにも責任を果たさないで、勝手なことして死んでも、もしかしたら神様はあわれんでくださるのかも知れません。けれども、イエス様のお手本は、違う生き方を薦めています。遠回りに感じるかも知れないけれど、人のために骨折って、泣く人と一緒に泣いて、笑う人と一緒に笑って、精一杯のことをしましたので、あとは神様お任せします。そういう模範を、イエス様は身をもって示してくださっているのではないでしょうか?

神様を信じたおかげで、十戒の掟も出てきました。教会の六つの掟も受けました。ミサにも行かんばいかんし、教会を支えるための寄付も求められます。救われるとは、そんなに遠回りなことなのかと思うかも知れませんが、遠回りのように思える道を、イエス様があえて歩かれたことを決して忘れないようにいたしましょう。

十分検討した上でイエス様が選ばれた道に、間違いがあろう筈はありません。同じように、今の信仰の歩みも、遠回りのようであって、実は確実な道のりなのではないでしょうか?