主日の福音2002,3,10
四旬節第4主日(ヨハネ9:1-41)
罪を憎んで、人を憎まず
最近、「言った」「言わない」という言葉が流行っているようです。皆さんのほうが私より詳しいかも知れません。あれは、面白いといっては何ですけど、これまでお茶の間の話題にはのぼらなかった政治の話が、ホント、この「言った」「言わない」で身近になったような気がします。
ところで今日は、この「言った」「言わない」を、イエス様に結びつけてみたいと思いました。イエス様のお言葉に矛盾があるはずはないのですが、私は今回のお説教を準備しながら、今になってあらためて考えてみたことを皆さんと分かち合ってみたいと思います。
今日の朗読箇所、大変長かったので、私が取り上げようとする箇所はひょっとしたら聞き逃したかも知れません。終わりに近い箇所なんですが、こういうことをイエス様は仰いました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」(ヨハネ9:39)。
私は、一瞬自分を疑いまして、「?イエス様が、裁くために来た?何かの間違いだろう」と思って読み返すのですが、どうも書いてある通りなんですね。日本語の翻訳の問題かなと思って、ほかの言葉に当たっても見たのですが、どうやら「裁き」という言葉を使っているのは間違いないようです。
どうしてこのイエス様のお言葉に引っかかったかと言いますと、同じヨハネの福音書の中に、よく聞き慣れたお言葉があるからなんです。12章にこう書いてあります。「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(ヨハネ12:47)。
今日は、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」と仰いますが、あとでは「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」と仰る。えー?どっち?イエス様は裁くの、裁かないの?まさかイエス様が、あっちでこう言い、こっちでは違うことを言うの?エー、いったいどっちが本当なの?……と思ったわけです。
矛盾しているのでしょうか?いえ、両方とも、言葉を少し補ったら、なるほどと合点がいきます。実は両方とも当たっているのです。
よくよく考えると、あーそうかと思うわけですが、今日の朗読の、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」は、何を裁くかが問題です。イエス様は、罪を裁くためにおいでになりました。罪を曖昧にせず、罪を認めて、神様の前に謙虚に跪くために、導き手としておいでになります。
一方、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」。ここでは、「世」というのはこの世の人々のことですから、イエス様は「人を裁くためではなく、人を救うために来た」のです。二つを合わせると、罪を裁くためにおいでになりましたが、人を裁くためではなく、人を救うために来た、ということなのです。私たちにしっくりくる言葉で言い換えると、「罪を憎んで、人を憎まず」ということなのでしょう。
イエス様は、罪をお裁きになります。罪は確かにあります。心の中で、陰で、あるいはあからさまに。ただし、罪を認める人には、ゆるしと救いがあります。だから、目を開いてもらい、一人ひとり罪を認め、悔い改めてイエス様を信じるなら、必ず救ってくださるのです。ところが、自分に罪を認めず、悔い改めることなど一つもない、私には何の欠点も落ち度もないと言い張る人は、神様のあわれみもゆるしもなく、残念ながらその人に救いは届かないのです。
今日イエス様は、生まれつき目の見えない人を奇跡的にいやしてくださいました。障害を抱えていることは、決して罪ではありません。当時の人々は、罪と関係があると思っていましたが、障害は罪とは何の関係もないのです。だから、本人はもちろんのこと、奇跡を見た周りの人も、特にファリサイ派の人たちには、「見えるように」なって欲しかったのです。
誰もが、イエス様を信じることで救われる。身近なことで言えば、私たちは日々、何かしら心の中でとか、陰でとか、罪を犯している。または、イエス様すら罪を裁いても人は裁かなかったのに、私たちは人を裁いて、罪を犯している。だから、あわれみ深いイエス様、正直に認めますから、救ってください……そんな気持ちを起こして欲しいのです。
私たちは常々、イエス様に正直に生きていくことを考えておく必要があります。イエス様は罪をお裁きになりますが、人をお救いになるお方です。正直に生きていくべきなのですが、時々、「誰も見ていないから」とか、「見つからなかったから」「結局何事もおこらなかったから」と言って、自分で自分の物差しを曖昧にして、自分を見えなくしてしまうのです。
こうして日曜日ごとにミサに与ることは、自分を振り返るとっても良い機会になります。今日も、いろいろ自分に言い訳して、見えなくなっている心の目を開いてもらいましょう。新たな一週間を、イエス様に正直に生きていく。罪は罪としてとがめますが、人を裁かないイエス様に、今週もまた誠実に生きる。本当の意味で、目が見えている人の生き方を身につけることができるように、ミサの中で願っていくことにいたしましょう。
来週の説教
四旬節第五主日(ヨハネ11:1-45)