主日の福音2002,3,3
四旬節第三主日(ヨハネ4:5-42)
一を聞いて
今日の福音書の舞台となっているサマリアの町シカルは、イスラエルの中央部にあって、海からも、死海からも、ガリラヤ湖からも離れております。ということは、暑い、とっても暑い場所だ、ということです。
私たちが訪ねた時期も夏ではありましたが、あちらは日中は簡単に40度を超えます。温度計を見ると、数字を見ただけで「あつーい!」と思ってしまうくらいです。彼女は、わけありの生活がそうさせたのか、朝夕の涼しいときではなくて、わざわざ日中の暑い盛りに、水を汲みに来ました。
車でブー、と乗り付けて、さっと帰るわけではないのですから、この女性が汲むものを持って井戸に近づいてくるあいだ、イエス様は彼女をじっと見つめていたのではないでしょうか。きっとそのあいだに、「水を飲ませてください」というちょっとしたきっかけを使って、イエス様ご自身の「生きた水」を与えることに思い当たったに違いありません。
イエス様は、ほんのちょっとしたきっかけから、多くの良いものを引き出したり、ご自身の豊かさを分け与えてくださる方です。今日もイエス様は、目の前にやってきた女性に、「飲み水」をきっかけにして、イエス様を信じて生きる人は、イエス様から汲み尽くせない豊かな「命の水」をいただけると、ていねいに導いてくださいました。
イエス様のような教え方から学ぶことを、「一を聞いて十を知る」というのでしょうか。イエス様は一から十まで教えてくださるのではなくて、一教える中に、十の豊かな実りがすでにあるのだと思います。学ぶ側が、時間をかけ、何度も思い巡らすうちに、十に思い至るのかも知れません。
一を聞いて……と言えば、幼い頃父親と一緒に遊び道具を作ったことを思い出しました。竹馬、竹とんぼ、色々ありましたが、その中でも自慢の一つは、手作りの凧でした。
小学生の頃、父は遠洋船に乗っておりましたので、教える時間は月夜間の三日間しかありません。巨人の星計画はあっさり挫折しましたので、遊び道具、たとえば凧の作り方などは熱心に教えてくれました。
最初は、竹を割ることからです。大きな竹を鉈(なた)で適当な大きさに割って、それを小刀ナイフでていねいに削っていきます。少しずつ削らないといけないのですが、わたしは何本も失敗を重ねながらそれを覚えました。
また、凧の骨組みは、凧糸で組み合わせ、障子紙を張るために周囲に凧糸を渡して仕上げます。縦の長さに対して、横の長さがどれだけ、横の骨組みの何分の一のところから弓のように曲げて、正方形に仕上げる。見よう見まねでしたが、見た目は同じように作ることが出来ました。
三日間のうちに、凧揚げまでこぎ着けますが、どうしても私の凧は父親の凧のように自由自在に飛びません。また、凧同士でけんかをすると、簡単に切られたり、落とされたりするわけです。どうして?と思うのですが、いつもそのあとは「自分で考えろ」でした。三日間の講習はあっという間に終わり、次の月夜間までの残る二十何日間は、残された宿題を失敗を重ねながら考える日々でした。
そのうちに、どこが悪かったのかだんだん分かってきまして、いろんな発見をします。縦の長さに対して、横の長さは手のひらを一杯に伸ばした長さ余計に取ると教わったのですが、考えると私の手の大きさと、父親の手の大きさでは、ぜんぜん物差しが違うわけです。
また、どうして身軽に飛ばないのかなあと思って、父親の凧の骨組みをよくよく見たら、横に組んだ竹は、ほんの少しですが、端に向かって細く仕上げているのですね。うーん、全部教えてくれればいいのに、と思ったのですが、「自分で考えろ」と言い残して、いろんなことを学ばせようという魂胆だったのでしょう。今であれば、もっとたくさんのことに思い当たるのかも知れません。
さて、イエス様はサマリアの女性を導いてくださっただけではありませんでした。サマリアの女性が、導かれたあとに、彼女を通じて土地の多くの人がイエス様に導かれることになります。彼らは言いました。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(42節)。男性というプライドもあったかも知れませんが、彼らは確かに、女性から一を聞いて、イエス様から十を学んだのでした。
イエス様は仰います。「わたしが与える水を飲む者は決して乾かない」。のどの渇きや、空腹が教えてくれることは、たかが知れています。けれども、永遠の命でおられるイエス様に乾き、イエス様の教えに満たされたいと願う人は、汲めども尽きぬ泉にたどり着くのです。
体の欲求や、毎日のささいな出来事から、私たちは何を学ぶのでしょうか。一つのことから、一つ、もしかしたら一つすら学ばないのかも知れません。イエス様の導きを切に願うことで、小さなきっかけから多くのことを学ぶことが出来るよう、またイエス様にさらに心を向けていく人になれるように、ミサの中で恵みを願いましょう。
来週の福音
四旬節第4主日(ヨハネ
9:1-41)
「生まれつき目の見えない人をいやす」