主日の福音2002,1,27
四旬節第二主日(マタイ17:1-9)
イエス様に導かれてこそ意味がある

今日の福音書、朗読の始めに、「六日の後」と書いていますが、これは説明が必要かも知れません。六日前に何があったかと言いますと、イエス様がご自分の死と復活を弟子たちにうち明けたのでした。ペトロは、どうしても受け入れることが出来ずに、「そんなことがあってはいけません」と言いましたが、イエス様に叱られます。神様のお考えに、口を挟むことは、ペトロであってもしてはいけないことでした。

ところが、イエス様に「口を挟んではいけないよ」と叱られたのに、六日後の今日もペトロは口を挟みました。よく私たちの周りでも、それをしなければおこられることもないのに、どうして?という人がいるものですが、ペトロはついこの前叱られたばかりなのに、口を挟みます。人間の性格というものは、そう簡単には直らないものですね。


ただ、今回はペトロも少し気を利かせたのでしょう。「この前は叱られるようなことを言ったから、今日は何としても挽回しなければ」そういう気持ちだったかも知れません。自分としては、「よく気がついたね」と言われてもおかしくないくらい立派な提案を思いついたのでした。このすばらしい場面を、この地上に長くとどめて、たくさんの人々に見せようじゃないか。そうすれば、イエス様がどんなにすばらしい方であるか、誰もが分かってくれるに違いない。


結果はどうだったのでしょう?気の利いた申し出であったにもかかわらず、結果としては退けられました。さすがに叱られることはなかったのですが、返事をもらうことが出来ませんでした。その代わりに、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声がします。どうしたらよいか、イエス様に聞けということです。


ペトロは六日前には、イエス様が進もうとされる道のりの邪魔をしてはいけないと叱られました。今日は、「その時になるまで、話してはいけない」ということを教わります。イエス様はこう仰いました「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」。話すべき時、話してもよい時がやってくるわけですが、それまでは、どんなに話したくても、どんなに動きたくても控えなさい、今日は、ペトロを通してそう教えておられるようです。


このイエス様の忠告を聞いて、わたしは一つの体験を思い出しました。教会新聞を作っているとある教会ということにしておきましょう。その新聞に私が原稿を書く順番が回ってきましたので、「教会での奉仕のあり方」について、好き勝手に書いたことがありました。今考えると、言われている方々の気持ちも考えないで、失礼なことをしたなあと思うわけですが、その時は思いつくまま、これが本来の奉仕の姿でしょ、というのをずばずば書いたわけです。


実はその時、書いた内容が問題になりまして、ご迷惑をかけてしまい、当時の主任神父様があいだに入って、何とか収めてもらうところまでいきました。まあ幼かったと言えばそれまでですが、その時主任神父様が、私にこんな風に言ってくださいました。「あのなあ、
60にならんと言われんこともあるとぞ」。

私は、叱られても仕方ないとは思っていたのですが、主任神父様の言葉は、ダメという意味ではなくて、「今あなたの立場で言うべきことじゃない、言うべき時が来るまで待ちなさい」ということだったのだろうと思います。イエス様がペトロに、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と仰ったのとちょうど同じ場面でした。

私の心の中では、あのとき主任神父様に言われたことは、今でもずっと残っていまして、ちょっと待てよとか思うときには、「あのなあ、60にならんと言われんこともあるとぞ」と仰っている場面がふっと浮かぶわけです。でも60になるまでと仰いますけど、そんなこと言っていたら最低でもあと24年は待たないといけません。それまで待っていられないような気もしますが、どんなものでしょうか。

ペトロは、イエス様が死者の中から復活するまで話すなと言われました。本当は、今すぐに動き出したかったことでしょう。自分では正しい、何も間違っていないと思うことでも、それでも、死と復活を通るまでは、控えるべきことがあるのだと思います。

私たちも、イエス様の死と復活を待ち続けております。生活の中で、口に出して言おう、行動に移そうということがあるでしょう。本当に意味のあるものとなるために、イエス様と一緒に自分に死んで、イエス様のうちに復活する、それまで控えてみてはいかがでしょうか。

イエス様の死と復活にあずかって、それから言葉と行いで行動を起こすとき、私たちは本当に意味のあることができるのです。