主日の福音2002,2,17
四旬節第一主日(マタイ4:1-11)
人はパンだけで生きるのではない

過ぎた「灰の水曜日」を皮切りに、四旬節に入りました。これからの約6週間は、イエス様の死と復活という大きな救いの出来事に向かっていく時期、私たちにとってもさらに救い主イエスへの感謝を深める時期となります。

朗読された福音書は、イエス様が悪魔から誘惑を受ける場面でした。「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、『霊』に導かれて荒れ野に行かれた」(1節)。このあとの話はイエス様が悪魔の誘惑に心が揺れたとか、誘惑と戦って大変だったということを言っておられるのではなくて、数々の誘惑に出会いながら人生を歩かなければならない私たちに、模範を示そうということが大きな狙いです。

実際、悪魔の誘惑に、イエス様は全力で戦ったとか、どうしようかなぁといった迷いが生じたという様子は見られません。悪魔の巧妙な誘惑に、淡々と答えておられるだけです。それもその筈、イエス様が一生懸命誘惑と戦うなんてことはあり得ないわけで、もしもそうであれば、イエス様という一人の人間の偉〜い話で終わってしまいます。


そうではなくて、誘惑にさいなまれ、一生懸命戦わないといけない私たちへの模範を示されたのだと考えるとき、今日の福音は生きてくるわけです。イエス様はパンが欲しければ、悪魔に言われなくてもパンを生み出して食べたことでしょう。そうではなくて、なければなくても済むものを蓄えたがる私たちに、この世でどう生きるべきかを教えようとされたわけです。


あるいは、石のように硬い、安定した物よりも、もっと大きな賭けをして、あっという間に蓄えを増やしたり、立場を逆転させたいとか、今まで失ったものをいっぺんに取り戻せるぞといった誘惑に、どう対処すべきかを、教えようとしておられるのです。


そこで、自分への戒めも含めて、今日は第一の誘惑について考えてみたいと思います。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」
(3節)。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)

悪魔が引き合いに出す「これらの石」、わたしはこれを、ミサの中で読む聖書に当てはめたいと思います。多くの方にとって、聖書をただ読み続けることは、砂を噛むようなもの、石にかじりつくようなことと感じるかも知れません。悪魔はそこで、中田神父にこう言うわけです。「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。この聖書の朗読を巧みに操って、面白可笑しく話したらどうだと。


答えははっきりしています。「人は、パンだけで生きるものではない」。面白可笑しく話す、それだけで終わることは可能でしょう。けれども私たちは、パンだけで生きるものではないのです。腹持ちがいいからと言って、おいしいからと言って、私たちはパンだけでは満足しないのです。それは聞いているみなさんも、話す私にとっても同じことです。そこに「神の口から出る言葉」がなければ、生きる糧とは言えないのです。


お説教を用意するのに誘惑があるの?と思うかも知れませんが、誘惑はあるんですよね。たとえばよくできたお説教集に飛びつくこともできなくもないです。さも自分で準備したかのように話せば、うまいこと伝わるかも知れません。パンは用意できたかも知れませんが、そこに「神の言葉はあるかしら」と考えると、ないような気がします。石にかじりつくわけにはいきませんので、パンは必要でしょう。けれども、パンだけでもいけないわけです。

こうした誘惑をイエス様はきっぱりとはねのけています。人はパンだけで生きるものではない。君がそこそこよくできたパンを用意しても、わたしの羊たちは養われるわけではない。神の言葉を届けなさい、一つでも二つでもいいから届けなさい。神の口から出る一つ一つの言葉で、わたしの羊は養われるのだから。そう仰っておられるのだと思います。

最近つくづく思うことなのですが、イエス様は、都合のいいパンだけ与えたりはしなかったんだなあと思うわけです。イエス様が、自然を飛び越えて救いをもたらすことも、やろうと思えば出来たでしょう。それもありなのかも知れませんが、実際はきちんと苦しみ、きちんと死んで、復活する道を選びました。それは言ってみれば、人はパンだけで生きるものではないということを、生涯をかけて示してくださったのではないかと思うのです。

苦しまないで、死なないで、あるいは手を汚さないで、恵みというパンだけ与えて。けれどもイエス様はそれを選びませんでした。ある意味不器用な生き方で、体を張って「神の言葉」を残してくださった。イエス様がパンさえ出せばいい、そう考えなかったのに、説教をする私が見習わないのはおかしな話です。

誘惑はあります。やることやれば、それでいいでしょ?お説教でパンを用意すればいいでしょ。そういう誘惑に、まずはこれからの四旬節の期間、戦っていきたいと思います。聞いてくださるみなさんも、ご無理ごもっともという気持ちで聞くのではなくて、今週はちょっと…とか、しっかり吟味しながら聞いてください。そうすればきっと、神様が私の口を通して、みことばを語ってくださることでしょう。