主日の福音2002,2,10
年間第五主日(マタイ5:13-16)
輝かせるべきは「イエス様の光」

世の中激安ブーム、何でも百円、何でも98円、何でも詰め放題。お母さんたちは大喜びですが、お店の人も、実はどこかで大喜びしているのだと思います。まったく儲かっていないはずはありません。それでも何かのうまみがあるので、いつまでも百円で続けていくことができるのだと思います。

教会の神父が話すようなことではないのでしょうが、この百円ショップは、徹底的に無駄を省き、血のにじむようなコストの見直しをはかって、売り上げにつなげているのでしょう。いつでしたか、68円を謳い文句に勢いを伸ばしているスーパーマーケットが、「本日の売り上げ、780万円を目標に頑張りましょう」とか言っていましたよ。あれ、本当でしょうか?私の聞き間違いだったかな?


さて、徹底的なコストの見直しということなんですが、コストで隅から隅まで見直してみることが、小売りの世界ではいちばん目を光らせる方法だと思いますが、福音宣教、身の回りでイエスキリストを伝えるにあたって、彼らの徹底した努力に見習うことはできないものでしょうか?


私は、きっと何かしらの見習う点があるのだと思います。徹底的に福音宣教の方法を見直してみる。自分の出きることで宣教しましょうと言っても、なかなか進まない、現実はそうしたものだと思います。


私事で、非常に申し訳ないのですが、今日午前中に、末っ子の妹が、一人の男性を連れて私を訪ねてまいりました。あちゃ〜、来るべき時が来たかと思いましたが、まあ私は親ではありませんので、娘はやらないとか言ってだだをこねることはしませんでしたけれども、きっと大変だろうなあ、そんな思いで二人を見ておりました。


まあ、家の父ちゃんと娘さんをください、娘はやらん、にらめっこをする前の心の準備と思って、手を変え品を変え、世間話の中に結婚の心構えをちりばめて、いっぱい話してあげました。何せ、信者でなければ娘は絶対やらんの一点張りだそうですから、実際に殴り合いはしなくても、
12ラウンド持ちこたえるだけの心の準備はさせてあげたいと思って、必死に神父の仕事を全うしました。

私が、妹の単なる兄だったら、また立場は違ったでしょう。けれども、出来はどうあれ、兄であり司祭であるわけですから、カトリックでない彼に、カトリック、しかも、イエス様から司祭にしていただいたその光を、彼の前に輝かせることは当然の義務です。今となっては、何をまくし立てたか、覚えてもいませんが、よくまああれだけ立て板に水を流すように、ペラペラペラペラ話したものだと思います。


三島丸に乗り込む崎戸の港で別れてから、しばらくぼうっとして考えました。妹のフィアンセはこうじ神父をどう思ったのだろうか?兄として見たのだろうか、教会の神父として見たのだろうか?そして私は私で、将来妹の旦那になる人に、私はまともな挨拶ができたんだろうか?いったい何を話したんだろうかって、何だか恐くなってきました。


けれども、今日の福音は、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と仰ってくださいました。兄として責任を果たせたかどうかは分かりません。けれども、少なくとも、イエス様が私の中に置いてくださった司祭としての光は、彼の前に示すことができたのではないか、と思ったわけです。


生まれてはじめて、兄の責任みたいなものを感じました。あー、妹は別の名前を名乗って、茨城県に行っちゃうのだなあと思って、父親はどれほど辛かろうかと、はじめて親の気持ちを考えました。きっと今頃は、晩飯を前にしてにらみ合いをしている最中だと思います。チャンポンか、皿うどんか知りませんが、冷たくならないうちに一緒に食べてから、後半戦をしてくれよと、願うばかりです。


いざ大切な人を前に話してみて、実感として分かったこと。福音宣教に、私の知恵や学識は大したことではありません。何をどう話したかも分からないほどまくし立てたのですから、いざとなったら、輝かせるべき光は、私の持っている知識や学識ではなくて、洗礼と堅信の時に確かにいただいた聖霊を、そのまま示すこと、ありのままに示すことだと思いました。


小手先のものは、光ってますが深い輝きはないのです。神様が注いでくださった聖霊は、どんな人の中にあっても変わらない輝きを放ちます。今日は説教の中心としては、徹底的に福音宣教の仕方を洗い直そう、見直そうということだったはずなのですが、とんでもない横道にそれてしまいました。申し訳ありません。