主日の福音2002,2,3
年間第四主日(マタイ5:1-12)
「あなたがた」は幸いである

今日の福音の舞台は、カペナウムという土地で、現在はフランシスコ修道会によって「山上の垂訓教会」(山の上で、訓示を垂れると書きます)が建てられている場所です。もちろんちょうどここでという証拠はないでしょうけれど、人々に親しまれている土地です。全体としてはなだらかな丘で、大勢の群衆にお話なさるのには、絶好の場所だったかも知れません。

3年ほど前にイスラエル巡礼に行かせてもらいましたが、私もこの「山上の垂訓教会」を尋ね、みんなでその日のミサを捧げました。小さな教会堂で、私は幸いに、その日のお説教の当番だったので、一緒に巡礼している青年のみなさんにお説教したことを覚えております。参考のために、オルガンの近くの椅子に写真集を置きましたので、あとでごらんになってください。
今日取り上げたいのは、もしかしたら全体の中ではやや中心から外れているかも知れません。11節と12節を少し考えてみたいと思います。この二つの節は、先の1節から10節とは明らかに言葉を変えて使っているので、興味を持ちました。

先の八つの幸いについては「(こういう)人々は幸いである。その人たちは・・」というふうにつながっていきますが、今日お話しするところは、「(艱難を耐え忍んでいる)あなたがたは幸いである」と、はっきり「あなたがた」と言っています。とても興味深いと思いました。

この、「あなたがた」という言い方なんですが、マタイ福音書の中で96回出てきておりまして、すべてではないですがそのほとんどが、弟子たちに話しかけるときに使われる言い方です。そうすると「あなたがた」とイエス様が呼びかけるのは、イエス様が弟子として認めてくださっている、弟子としての報いを用意しておられるということではないでしょうか。

このことを踏まえて考えると、11節以降は、まずは弟子たちに向けて話されたと言うことになります。あなたがたは将来迫害されるかも知れない。けれども、わたしが、あなたがたの報いを保証するから、安心しなさい、そう仰っているわけです。そしてこの「あなたがた」という言い方は、実はもう一つ、目の前にいる弟子たちばかりではなく、イエス様を信じたすべての人に向けられている節があるのです。

こう言うことでしょう。11節以降は、マタイ福音書の読者に向かって、あなたがたは幸いであると言っているのだと思います。先の八つの幸いは、広い意味で「天の国はその人たちのものである、その人たちは慰められる・・」と仰っているのですが、あとのところは、明らかに厳しい迫害にさらされている、あるいはさらされようとしている人々を意識しています。

見た目には、苦しみを受け、不幸と思われる弟子たち、また、イエス様を信じた後世の人たち。マタイ福音記者は、その弟子たちに、イエス様の口を借りて、あたかもイエス様が語りかけているように幸いを語ってくださるのです。それは、今ここで福音のみことばに与っている、私たちにも当てはまります。

イエス様を信じたはいいけれど、身に覚えのないことで悪く言われている。そんな人々を、「あなたがた」と親しく呼びかけて強めてくださいます。天には大きな報いがある。あなたがたへの迫害を、わたしは決して見過ごしてはいないよ。忍耐して、勝利を勝ち取りなさいと励ましておられるのですね。

考えてみると、「わたし」「あなた」という呼び方は、本当に親しい間柄、深い関係にある人でなければ使わないと思います。「あなた〜」でも「ちょっとあんた」「あ〜た」でも構いませんが、親しい相手でなければ、こうは言えないでしょう。「ねえあなた」と、もし中田神父が声をかけられたら、わたしはぎょっとするでしょう。それほど、「わたし」「あなた」という呼び方は、親しい仲を表していると思うのです。

今日、イエス様は八つの幸いのほかに、「あなたがた」の幸いについて語ってくださいました。それは、八つの幸いよりも、厳しい道のりかも知れません。けれども、イエス様のほうは、私を「あなたがた」「あなた」と呼んで、この世の幸せではない、天に宝を積む幸せに招いておられます。

信者であるということで、ちょっと嫌だなあと思うこともあるかも知れません。そんなとき、イエス様が私を「あなたがたは幸い」と呼んでおられることを思い起こしましょう。イエス様がくださる幸いは、口約束ではありません。

どんな困難の中でも幸せを与えようとしておられるイエス様に、このミサの中で感謝を捧げたいと思います。