主日の福音2002,1,13
主の洗礼(マタイ3:13-17)
正しいこと・正しい人
今日は、「正しい」という言葉にこだわってみたいと思います。洗礼を望んでおられるイエス様は、思いとどまらせようとするヨハネの声を制して、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節参照)と仰います。イエス様はここで、「正しい」という言葉を正しく用いておられます。
偉そうなことを言いましたが、イエス様のしていることが正しいかどうか、罪人の私に(人間にと言いましょうか)何かが言えるはずもありません。あえて言えるとしたら、神様がなさることは、すべて正しい、何をなさっても正しい。そしてそれは同時に、神の子であるイエス様についても当てはまる。つまり、イエス様がなさることは、人間が口を挟む問題ではなく、最初からすべて正しいということです。
もしこれだけの話でしたら、説教は2分で終わってしまいます。ですが、イエス様は神様ですから、やることなすことすべて正しい、はい終わりでは、私たちにとって何の意味がありましょう?私たちが学ぶべき事がどこにあるでしょうか?私たちは、今日何としても今週一週間の糧を得たいのです。そのために、ここに集まっているのです。
さてここからが本題です。私たち「人間」にとって、何が「正しいこと」なのでしょうか。実はここでも、イエス様がお手本を先に示してくださっています。神の子としては、ヨハネから洗礼を受ける必要などどこにもなかったのに、人として、ヨハネから洗礼をお受けになった。ここに、人間にとっての「正しさ」が示されています。
洗礼者ヨハネが説いた洗礼は、「悔い改めの洗礼」でした。身分の高い人、低い人、金持ちも貧しい人も、どんな人もすべて、神の前に身をかがめるべきである、という招きでした。これこそ、人間にとって第一の「正しい」振る舞いだったのです。神様の前に取るべき態度を取る。詰まるところこれが、人間にとって「正しい」こと、正しいかどうかの「物差し」なのです。
そうしてみると、イエス様の態度もよく分かります。神の子ですから、ヨハネが「そんな、とんでもないことです」と思いとどまらせようとするのは当たり前ですが、人としては、誰よりも真っ先に父なる神の前に身をかがめること、そのしるしとして悔い改めの洗礼を受けることは、この上なく正しいことだったのです。イエス様は、正しい人の中の正しい人として、人間が神に取るべき態度を示してくださったのです。
では、私たちはどうでしょうか?幼いときに洗礼を受けたみなさんにとって、みずから望んで神様の前に取るべき態度を取る場所はどこでしょうか。おひとりおひとり、考えるべき部分ではありますが、例を挙げてみたいと思います。
最近頓に気を病んでおりますのは、子どもたちの教会での態度です。見ての通り、と言いたいところですが、たいがいそういうときに限ってぴしゃっとするので、私が今日みたいにくどくど言わないときに見てくだされば一目瞭然です。行儀悪いですよね。私の秘蔵っ子であるはずの侍者たちさえ、不十分です。私もたまには言うのですが、まあ上の空なのか、1時間は持たないのか、なかなか難しいと感じます。
今は、こうしなさいと言われて、言われた通りにするのかも知れません。けれどもいつかは考えて行動する日が来るでしょう。その時に、今日の呼びかけを思い出して欲しいものです。「祈りの家に集まって、私たちが神様に取るべき態度は何でしょうか?」心と体のすべてを神様の前にふさわしく整えたら、どんな形になるのでしょうか。
私は、手を合わせるなり、手を組むなりして、一心に心をあげようと努力する、そうすることが、この祈りの家に集って、神様に取るべき態度ではないかと思います。祈りの家に、体裁を取り繕うために来るのでは、そこに「正しさ」はないのではないでしょうか。また、朗読者を通して神の言葉が語られています。注意して耳を傾けるのが、神様の前に取るべき「正しい態度」ではないでしょうか。
今日から、気づいた一つ一つを振り返ってみましょう。祈りの最中、ぶすっと黙りこくっていることが、果たして正しいと言えるでしょうか?年がら年中「ただの参加者」というのは、神様の前に取るべき態度でしょうか。果たしてそれで、「正しい」と言えるのでしょうか。
今日、イエス様は、「人は神様の前に取るべき態度を取るときに、はじめて正しい人になるのですよ」と招いてくださいました。問題は、人の目に正しく映るかどうかではありません。人は人を「正しい」とすることができないのです。神だけが、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と仰って、私たちを正しいと認めてくださるのです。