主日の福音2001,12,23
待降節第四主日(Mt1:18-24)
神に心を開くとき、神は共にいてくださる
今日のマタイ福音書は、クリスマスに向けて、私たちに最後の最後の準備として、養父ヨセフの姿を紹介します。私たちも、ヨセフ様の模範を仰ぎながら、イエス様を待ち望む気持ちを確かなものにしましょう。
マタイは、マリア様の夫ヨセフを、「正しい人であった」(v.19参照)と記しています。マタイ自身が、特定の人を「正しい人」として直接紹介するのは、実はこの箇所ただ一度だけで、そのことからも、マタイがいかにヨセフを正しい人として認めておられたかが分かります。この正しい人が、マリア様と「ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。
マタイは、一度だけ、正しくないことをしようとしたのでしょうか。そうではないと思います。ヨセフは、当時のものの考え方の中で、精一杯の正しい態度をとろうとしていました。まだ正式に籍を入れず、一緒に暮らすよりも前に子を宿していたマリアを妻として迎えることは、当時としては正しいことではありませんでした。
けれども、マリア様は悩み苦しんでいましたので、ヨセフ様も同じくらい悩み苦しみ、「ひそかに」縁を切ることを決心したのです。これが、当時の社会の中で、考えられるぎりぎりの正しい態度でした。
ところが、イエス様の誕生に当たって、天使が夢でヨセフに現れます。そして、「恐れずにマリアを受け入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と告げたのでした。律法という、当時としては真っ先に当てはめるべき物差しを飛び越えて、聖霊の働きがさらにまさって正しいのだから、もっと正しい態度を取りなさい、つまり、マリアを妻として受け入れなさいというのです。
これが、今日私たちに示された呼びかけです。ヨセフは、福音記者マタイも認める正しい人、正しい人の中の正しい人でした。けれども、彼にまさって正しいのは、天地を造られた神であって、この神様の計画をそのまま受け入れることが、ヨセフをさらに正しい人に成長させてくださいました。私たちにも、今日この態度が求められているのです。
マタイは、今日の福音の中で、「100%正しい人の『正しい判断』よりも、神様の計画の方が正しい」ことを示します。いよいよ間近に迫った救い主の誕生を前に、マタイはこの大切な教えを私たちに示し、心を開くように求めるのです。
これまで、私たちはどのような生活を続けてきたのでしょうか。何度言われても証拠を見せられても、それでも自分の考えの方が100%正しい、いや1000%正しいと言って、計画の変更も、違った結果も、受け入れようとしなかったのではないでしょうか。
ヨセフは、自分の判断が100%正しいと思っていても、神様の前には自分の判断を譲りました。イエス様をお迎えするとは、イエス様と一緒に、信仰を受け入れ、信仰に土台を置いて生活するとは、今日の福音によれば、ヨセフの模範に倣う、ということなのです。
教会の飾り付けも終わり、私たちもそれぞれの仕方でイエス様をお迎えする準備を進めてまいりました。今こそ、イエス様をお迎えすることが、全面的に神様の計画を受け入れて生活することなのだということを、ヨセフを通して悟っていきましょう。
たとえそれが100%正しい決断であっても、神の導きに自分を置いて、神の照らしのもとに事を運ぶほうが、101%正しいということを、骨の髄まで覚え込ませることができるように、ミサの中で祈ってまいりましょう。