主日の福音2001,12,9
待降節第二主日(Mt3:1-12)
なぜイエス様の誕生を待つのですか

待降節の第二週目は、必ず「洗礼者ヨハネ」の活動が福音書の朗読に選ばれます。洗礼者ヨハネが、その活動の始めから終わりまで、徹底して「救い主イエスの到来を人々に準備させる」ことに向けられていたからです。それはそのまま、イエス様の誕生を待つ私たちの準備を促してくださいます。

さて福音書に入っていきますが、洗礼者ヨハネが、荒れ野で悔い改めを呼びかけているところに、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けにやってきました。ファリサイ派とサドカイ派の違いは、ここでは問題にしませんが、どちらも、よかれと思って洗礼を受けに来たのに、洗礼者ヨハネにこっぴどく叱られることになります。


「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」
(v.7-8参照)彼らも一応は宗教指導者と呼ばれる人々です。指導者にふさわしい称賛を受けるつもりで洗礼を受けに来たのかも知れませんが、待っていたのは群衆の前で恥をかくことでした。せっかく来たのに何だ、と思ったかも知れません。

けれどもよく考える必要があります。自分たちこそアブラハムの子孫だと胸を張って言うことができると思っていた人々が、こっぴどく叱られるのですから、根本的にどこかが間違っていたはずなのです。どこがどう、間違っていたのでしょうか。


一つ考えられることがあります。ファリサイ派の人々サドカイ派の人々も、「良かれと思って」洗礼を受けに来たのですが、その心は、「良いことをすれば、私の行いが立派であれば、救われる」ということだったのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネが説いた「悔い改めの洗礼」は、私たちがどんなに良い人になろうと努力しても、それで救われるのではなくて、もうすぐおいでくださる救い主がそれを成し遂げてくださる。だから、私の努力で救われようという考えを
180度改め、身を委ねるために洗礼を受けなさいと、口酸っぱく説いたのです。やってきた宗教指導者たちには、それが理解できず、叱られる羽目になったのでしょう。

そこで、私たちが過ごしている今の時期をもう一度考えてみましょう。待降節と呼ばれる季節、イエス様の誕生を待つ季節です。「待つ」のはなぜか、それは、イエス様がおいでになって、救ってくださるからです。人間の救いは、人間の努力で成し遂げられるのではなくて、救い主を待ち、救い主に身を委ねるから成し遂げられるのです。人間の努力で救いを勝ち取れるのなら、イエス様を待つ必要がどこにあるでしょうか。


ここに、神様が用意された不思議が横たわっています。私が正しいと認められるのは、私の努力ではなくて、神様のあわれみによるのです。なのに、私たちは、「私はこんなに一生懸命働いて、いやなことも耐えて、許せない人まで許しているのに、どうして神様は認めてくださらないのだろうか」と考えてしまいます。理不尽な仕打ち、不当な扱い。すべて良かれと思って耐えてきたのに、どうして認めてくださらないのですかと。


徹底的に砕かれる必要があるのです。ファリサイ派の人々も、サドカイ派の人々も、正しいと認められることはすべて行い、誰にも指をさされないほどの厳しい生活をした上で、洗礼も受ければこれでもう完璧だと思っていたのです。けれども洗礼者ヨハネは、「あなたの努力で救われようとどこまで頑張ってもダメです。神の前に砕かれて、身を委ねなさい」としか言わないのです。


正しい生活の方がいいに決まっています。どんな仕打ちをも耐え、殉教者と変わらない苦難を忍ぶ人を、神様が知らないはずはないのです。けれども、「最後に私が救われるのは、自分を捨て、神様に身を委ねる人なんだ」そのことが分からなければ、分かるまで徹底的に砕かれなければ、なぜ救い主を待つのか、その深い意味を悟ることはできないのです。


イエス様に身を委ねるために、私たちはご誕生を待っています。おいでくださる方が救ってくださるから、御子を待つのです。まだ自分の努力が御子イエス様よりも優れていると思っているなら、徹底的に砕かれる季節として、降誕までの日々を過ごしていきましょう。