主日の福音2001,12,2
待降節第一主日(Mt24:37-44)
待ってる「つもり」ではいけない

イエス様の誕生を待つ季節、「待」「降」「節」が始まりました毎年やってくる季節ですが、たとえ毎年であっても、今年、新たな気持ちでイエス様をお迎えしよう、そういう一年一年でありたいと思います。

今日の福音の中で、たとえばこのようなことだと言いながら、私たちに準備を促してくださいます。「二人の男が畑にいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」と言います。


二人ともおそらく、何か畑の手入れをしていたのでしょう。けれども、神がおいでになったときに、神が迎えてくださるのは、一人である。二人とも同じように畑仕事をしているように見えても、神様の目にかなうのは、一方であって、もう一方は残されます。


ですから私たちも、クリスマスに向けてこれから準備をしていくわけですが、12月24日にクリスマスのミサに与るときに、おそらく同じようにミサに集うのでしょう。この、クリスマスの日を、祝うために集まったという意味では同じなのですが、その中には、自分にできる精一杯の準備をしてこの日を迎えた人、それから、なんとなしに「あー、クリスマスくらいはミサに行かんばやろうなあ、そういう顔で来た人、いろいろいるんじゃないかと思います。


それは、私たちの側からは分からないかも知れません。まあ、地域が小さければ分かるのかも知れませんが、場所によっては分からないわけです。ここに集まっているみんなの中で、今日のこのクリスマスを迎えるために、どれくらいの期待で、待ち望んでいるか、今日この場に座っているか、私たちには分からない、計り知れないところがあります。


けれども、神様は見ておられる、準備を精一杯した、精一杯のことをして、この場に集まった人と、何とはなしにミサに来て、まあクリスマスくらいは行かんばいかんやろうと、そういう思いで座っている人とは、神様の前には明らかなんだと思います。


もう一つのたとえは、今度は臼を引いている。二人の人が臼を引いていればと言うんです。臼を引くのに、プロとか素人とか、そういうのはないと思います。ゴロゴロ引けば、それで済むわけですが、そうであっても神様の前には、何かが見えているわけです。同じ作業をしていても、同じ時間祈祷書を開き、あるいは決まった時間にミサに与ったにしても、その実り、その中で心をどれくらい込めたかということについては、神様は見ておられるのだと思います。


ですから、私たちは、毎年毎年この季節が巡ってくる、あー、また今年もかと、そうではなくて、一年一年、新たな気持ちを起こしていく、それは努力なんだと思います。歌の練習が今週のミサ後から始まるわけですが、いつも同じ曲と思ってしまえば、たぶんその先、歌の練習の中に気持ちは入っていかないと思います。


この歌を通して、去年歌った歌かも知れませんが、この歌の練習を通して、私は今年のクリスマスを迎えるんだ、そういう真実な思いを持つことができれば、その歌の練習は、その練習に費やした時間は、神様の前に貴いのではないでしょうか。


いつやってくるか分からないということを、今日の福音では最後に結んでいるわけですが、私たちはいつやってくるかは分かっています。24日のクリスマスイブ、25日の当日に、私たちはイエス様を迎えます。いつであるかが分かっているなら、なおのこと、私たちは準備に心を向けていかなければならないのではないでしょうか。


ぼんやりしていても24日はやってきますし、24日・25日は過ぎていきます。けれどもぼんやりした時間の過ごし方でこの大切な日々を通り過ぎてしまうなら、やはり今年の教会の一年の過ごし方は、何となく始まり、何となく終わるという、そういうものになってしまうのではないでしょうか。


しっかり目を見据えて私たちは準備をする。それは、去年もしたことだけれども、今年、私が神様と共に歩むために、神の恵みの中で生活を整えていくために、今年も準備が必要なんだ、そういう新たな気持ちを、ある程度努力して起こしていかなければいけないんじゃないかと思います。


練習とか、準備というものは、少し「慣れ」が入ってくると、そこには気のゆるみとか、何かの見落としとかにつながります。それは仕事の場合であればミスにつながったり、あるいは事故になったりするわけです。ですから準備は非常に大切だと思います。


イエス様を「待つ」ために四週間与えられましたので、この待降節の期間を心込めて過ごしていくことができるように、今日ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。