主日の福音2001,11,25
王であるキリスト(Lk23:35-43)
どうやって王に栄光を帰すか

わたしたちは普通、こんな考えをもっています。「良い人、正しい人は、悪い人の中に入っていかない」。良い人は、良いことをいつも選び、良い人と交わる。私たちはそう考えています。

ところが今日の福音で、、良い人の中のいちばん良い人、正しい人の中のいちばん正しい人であるイエス様は、罪人の中に入って、罪人といっしょに十字架にかかって現れます。私たちは普通、正しい人は、悪い人の中には入らないと考えているのに、イエス様は、十字架に磔になるような人の中に入っていったのです。

福音書の中で、イエス様をいろいろな言葉でののしる人がいました。議員たちは、イエス様をあざ笑いました。兵士たちは、イエス様に酸っぱいぶどう酒を突きつけました。十字架にかけられていた犯罪人の一人も、ののしりました。彼らは、もしイエス様が正しい人で、救い主なら、どうして犯罪人の私たちと一緒にいるのか、理解できなかったのです。正しい人は、普通、悪い人の中に入ったりしないのです。

イエス様は、どのように考えていたのでしょうか?イエス様にとって、ご自分が罪人の中に入ることは、不思議なことではありませんでした。イエス様は別のところで、こんな風に言っています。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5・32)。イエス様はすすんで、罪人の中に入っていったのです。

これは、わたしたちの普通の考えを超えています。正しい人は、正しい人と交わり、正しいことを選んで行う。私たちはそう考えています。けれどもイエス様は、罪人の中に入っていきました。罪人と食事をし、罪人と一緒に十字架にかかったのです。イエス様のわざは、私たちの理解を超えていました。

イエス様のわざは、私たちの理解を超えているのですが、私たちが正しいのでしょうか、イエス様が正しいのでしょうか、どちらでしょうか?もちろん、イエス様がいつも正しいのです。イエス様の考え、イエス様の言葉、イエス様の働きが、いつも、どこでも私たちより正しいのです。


さて、今日は「王であるキリスト」をお祝いする日曜日、教会のカレンダーでは一年の最後の日曜日です。実は、私たちが今まで考えてきた「イエス様の言葉、行いが、いつも私たちより正しい」ということと、「王であるキリスト」のお祝いとは、深い結びつきがあります。「王であるキリスト」をお祝いするということは、実は、「イエス様がいつも私たちよりも正しい」ことを認めることと同じなのです。


私たちは、これが正しい、これが当たり前(普通)だと考えていることがあります。「正しい人は悪い人の中に入らない」とか、「良い人は、悪い人と交わらない」とかです。けれどもイエス様は、悪い人の中でもいちばん悪い人の中に入りました。十字架にかけられる犯罪人の中に、入っていきました。イエス様は、私たちに新しいことを教えようとしているのです。みんなが普通だと思っていることに満足しないで、私にならいなさいと教えているのです。

イエス様は、態度で私たちに教えようとしています。正しい人が正しい人と交わるのは当たり前です。けれども、罪人と交わって、罪人の悩みや苦しみを聞くなら、もっとすばらしい人になります。自分の意見に賛成してくれる人と交わるのは普通ですが、私の意見に反対する人と交わって、謙虚にその人の意見を聞くなら、もっとすばらしい人になります。

実は、イエス様がそのように行ったのです。罪人の悩み苦しみを聞き、罪人の中に入り、罪人と同じ刑を受けました。普通の王様になるためではなくて、すべての人の王、この世の王はたくさんいるけれども、イエス様は王の王、唯一の王になるために、罪人の中に入ったのです。

そしてイエス様は、ご自分の道を私たちにも示しました。イエス様を王として認めることは、イエス様のしたことを自分も行うという意味です。正しい人とだけ交わるのではなくて、罪人、反対する人、私と合わない人と交わり、耳を傾け、悩みを聞き、助けてあげる。態度でイエス様にならう人は、イエス様を王と認めている人です。

今日の「王であるキリスト」のお祝い日は、「イエス様は王様です」それだけではありません。イエス様は王様です。それは当たり前で、もっと大切なことは、イエス様を王と認めるなら、私たちもイエス様にならって弱い人、罪人、反対者、敵を愛する。これが大切なことなのです。

イエス様は王様です。それだけで終わらないように、イエス様の模範をよく見て、私たちもならうことができるように、ミサの中で力を願いましょう。