主日の福音2001,11,18
年間第三十三主日(Lk21:5-19)
神の言葉:対抗も反論もできない言葉
私たちの経験上、どんなに自分が優れていると思っていることでも、上には上がいるものです。我慢比べ、知恵比べ、力比べといったたぐいのものは、おおよそ上には上がいるもので、誰も、自分が世界一で、これまでも、これからも自分を負かすものは現れないと、そこまで言い切ることはできません。
ところが、今日イエス様は、いくつかの言い方で、「絶対にうち負かされない」という励ましをくださっておられます。二つ取り上げたいと思いますが、一つは、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなた方に授ける」というところです。もう一つは、「しかし、あなた方の髪の毛の一本も決してなくならない」というものです。
それぞれ、考えてみたいと思いますが、イエス様の言い方は、私たちの経験で考えると、「本当かなあ」と疑いを挟みたくなります。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」とおっしゃるのですが、私たちの経験していることは、「どんなに知恵のある人でも、上には上がいる」ということでした。また、どんなに言葉にたけている人でも、もっと巧みな人は五万といる」はずなのです。それなのに、なぜイエス様はこんな大胆なことをおっしゃるのでしょうか。
実はわたしは、一つのことを伏せて、話を進めておりました。ここまでは、人間同士では、上には上がいるものだとはなしてきたのです。ところが、イエス様がおっしゃる「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」というのは、どこからくるかというと、神から、人間を越える方から授けていただくものなのです。
こうなると話は少し違ってきます。何度も言いますが、人間同士ではいくらでも上がいるのですが、神様と人間の間では、比べること自体が意味を持ちません。常に、どんな場合でも、神様から来るものがすべて私たちを上回るのです。念を押しますが、神様が授けてくださる「言葉と知恵」は、どんなときでも、どんな場合でも、私たちの言葉と知恵を上回るのです。
もう一つの方ですが、「あなた方の髪の毛の一本も決してなくならない」うらやましい話です。わたしはシャンプーするたびに、抜けていった髪の毛はもう生えてこないのではないだろうかと、日々おそれておりますが、イエス様は「髪の毛一筋ほどの心配もいらない、わたしを信じる人を、わたしは決して見捨てない」とおっしゃいます。これまた、どんなに信頼の置ける人でも、人間同士の信頼には限りがあると経験上思っている私たちには、なかなか受け入れるのは難しいことです。
この、イエス様の言葉は、先の「どんな反対者でも、対抗も反論もできない言葉と知恵」と深く関わっているように思います。イエス様の照らし、導きを、完全に信じなさい、社会が動こうとも、兄弟・親族の間で足下を揺らすような事件や不幸があなたを見舞っても、わたしはあなたを見ている。あなたはわたしの目から落ちることはないから、深い信頼を持ちなさい、一筋の疑いもいらないと励ましておられる。これは、そのまま受け取ると大きな慰めです。
さて、問題が一つ残ります。私たちは、イエス様が上から授けてくださる「言葉と知恵」を聞くことができるのでしょうか?または、もうすでに聞いたのでしょうか?非常に大きな問題です。説教をしているわたしを含めて、イエス様がおっしゃる「誰にもうち負かされることのないもの」を、私たちはいただいたのでしょうか?
今日、ここでいただく、と言っておきましょう。私たちは、「どんな反対者でも、対抗も反論もできない」言葉と知恵を、今日授かります。それは、「幸い」という言葉です。あえて、すぐには言いませんが、みなさん自身、「神様がくださる幸い」を、今日授けていただきます。社会のどんな不幸の中にあっても、家庭の不和や、兄弟親戚間の問題の中にあっても、神は今日、みなさんに揺るぎない幸いを授けてくださいます。
後は、ご自分で見つけてください。今日は答えを出さないまま、お説教を終わりたいと思います。ですが、これから続くミサの中で、イエス様は言葉に出して、「幸い」をくださいます。力強く、イエス様の幸いに感謝の言葉で答えていくことにいたしましょう。