主日の福音2001,11,4
年間第三十二主日(Lk 20:27-38)
一歩前に出てイエス様に答えを願おう

今日の福音の中で、復活についての問答が行われています。死者の復活ということは、聖書の中の話に留まらず、私たち自身の問題でもありますので、どのようにイエス様が答えてくださるかを、いっしょに見たいと思います。

ファリサイ派の人々と、サドカイ派の人々が、復活はある、いや復活はないと言ってお互いに議論しています。どちらも、旧約聖書を頼りに議論しているのです。ファリサイ派の人々は、のちに旧約聖書の中におさめられた諸書をもとに、復活はあると考えていました。サドカイ派の人々は、創世記からヨシュア記までの五つの書物を頼りに、いや、復活のことをモーセは言っていないのだから、復活はないのだと言い張ります。

どちらも、旧約聖書をもとに真剣に議論しているのですが、自分たちで白黒はっきりつけることができなかったので、言ってみればイエス様にゲタを預けた格好です。その上さらに、イエス様がどちらの意見に肩入れしても、イエス様を罠に陥れるという、巧妙な作戦でした。復活はないと言えば、当時の民衆を敵に回したでしょうし、復活はあると言えば、モーセの教えから外れていると触れ回ったことでしょう。

イエス様は両方の意見に左右されずに、はっきりと答えてくださいました。死者の復活はある、しかも、ご自身が身をもってそれを証明してくださるのです。

ここに、大切なことが隠されています。復活について、最後に答えを示してくださったのはイエス様でした。復活はある、そう考えていたファリサイ派も、復活はないと考えていたサドカイ派も、確信はなかったのです。イエス様だけが、確信をもって「死者は復活する」と答えることができたのです。ご自身復活なさって、そのことを証明してくださいました。

実は、今日の朗読箇所は、30年頃のイエス様の時代のことを書きながら、ルカ福音書が書かれた80年頃の事情も裏に隠されています。旧約聖書の教えに留まり、イエス様を信じることができなかったユダヤ人たちは、新しく現れたイエス様を信じる信者たちを迫害し始めていました。

そういう中で、復活について決定的な答えを出したのはイエス様で、イエス様を信じる私たち信者こそが、正しい生き方なのですよと、ユダヤ人に訴えかけているのです。イエス様を信じなければ、復活が本当のところどうなのか分からなかったではないですか、あなたたちの議論に最後に答えを出してくださったイエス様を信じることが、正しく旧約聖書を理解する道ですよと、繰り返し勧めてもいるのです。

復活はないと主張するサドカイ派の人々も、復活はあると言いながら、確信の持てなかったファリサイ派の人々も、旧約聖書が向かうところに一歩足を踏み出すだけで良かったのです。復活一つ取っても、旧約聖書の教えは最後はイエス様に向かってととのえられているのですから。

このことは、わたしたちにも当てはまるのではないでしょうか。信仰は大切だと思っていても、どこか今ひとつ踏み出せないでいる。そりゃあ信仰一筋というのは素晴らしいし、そうありたいと願うけれども、いろんな兼ね合いでそうもいかないと、思っている人がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

けれども、イエス様は今日、一歩踏み出しなさいと呼びかけてくださいます。入ろうか、戻ろうか、出たり入ったりウロウロするのではなくて、しっかりと一歩を踏み出して、イエス様に委ねて生きる人に変わりましょうと、招いておられるのです。そうでないと、調子のいいとき、頼りたいときはイエス様にすがり、そうでもないときは自分中心に生きる。そんなことの繰り返しで終わってしまう危険があります。

答えはイエス様にあるのです。イエス様から離れて、または回り道しても、イエス様のところにたどり着かないと、あなたが欲しがっている答えは見つからないのです。ほかの場所で、ほかの方法で、どんなにもがいても、イエス様のところにしか答えはない。今日はそのことを教えようとしておられるのです。

わたしたちは、ファリサイ派・サドカイ派の人々のようになってはいけません。どうしても教えてもらいたいこと、どうしても解決したいことを、イエス様以外に頼ってはいけないのです。

必ずイエス様のもとに来たら答えが見つかる。たとえ時間がかかっても、イエス様が答えをくださるまでは、どこにも答えはないのだという、決然とした信仰を持ち続けることができるように、今日のミサの中で祈ってまいりましょう。