主日の福音2001,11,4
年間第三十一主日(Lk 19:1-10)
「今日」を生きるまことの意味

今回は、朗読福音書の中から、「今日」という一点に絞って話してみたいと思います。イエス様はザアカイに、二度「今日」という言葉で話しておられます。

今年、日曜日ごとにルカ福音書を読んでいるわけですが、このルカ福音書で、「今日」という言葉は、大変重要な役割を持っているように思います。三つの箇所を紹介します。一つは、ルカによるイエス様の宣教活動の開始に当たって、イエス様は「今日」という言葉を使いました。

イエス様は、宣教の開始に当たって、会堂でイザヤ書が手渡され、読み終えると次のように仰いました。「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。
 イエス様は、「今日実現した」と話すだけの力と権能をお持ちでした。ですから、イエス様が「今日」と仰ったことは、そのまま、実現したわけです。

それから、イエス様が十字架にかけられたとき、犯罪者の一人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と仰せになりました。救いについても、イエス様は「今日あなたは救われ、楽園にいる」と仰ったのです。

そしてラザロに仰った「今日」です。この三つは、「今日」という言葉が、イエス様にとってどれほど深い意味であるか、イエス様が「今日」と仰る場合には、とても大切な意味があることを教えてくださるのです。

「今日」という言葉は、イエス様にとっては「昨日と明日にはさまれた単なる一日」ではありません。「今日という今日は」「今日こそは」そんな意味合いです。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」。

ザアカイは、人々から罪人扱いされる人でしたが、イエス様と出会って、変えられたのです。イエス様と出会わなければ、昨日も今日もかわらず罪の中にいたのかも知れませんが、彼はイエス様と出会って全く変えられ、「新しくされた」のです。

今を生きる私たちの中には、いろんな人がいることでしょう。いつまでたっても罪の中にいる人、自分の生活を何とかして変えたいと思うが、その勇気がない人。いろんな人がいるでしょう。一人ひとりに、イエス様はおいでくださり、「今日」という言葉をかけてくださるのです。

イエス様が「今日救いが訪れた」と声を掛けてくださるとき、それは、今日一日を指すのではありません。「今日」が全く変えられ、その新しさは、決して奪われることがないのです。ザアカイが出会った「今日」の深い働きは、今わたしたちにも注がれているのです。

今日一日、私たちはどのように過ごしたのでしょうか。無駄に過ごしたかも知れません。罪な一日であったかも知れません。けれどもイエス様は、そんなわたしたちを招いてくださり、誰も奪うことのできない「すばらしい今日」を与えてくださいます。そしてこの新しい「今日」は私たちすべてを神に導くようにしてくださいます。

神様が仰る「今日は」とても意義深い。今日を与えてくださる神に心をすっかり開いて、決定的な出会いを保ち、「今日」を生きるまことの意味を証ししていきましょう。