主日の福音2001,10,28
年間第三十主日(Lk 18:9-14)
徴税人の祈りは御心にかなった
ふだんの会話の中で、素直に喜ぶことができないとか、言葉の中にとげのある会話を聞くことがあると思います。たとえば、誰かが失敗したために、自分によい結果が回ってきたことを、当たり前のように喜んでいるのを聞くと、聞いている人はきっと不快に思うでしょう。
「小学校の運動会の時は、うちの子どもが思いがけないことで一番になりまして、あなたの家のお子さんが、ゴール直前で転んだでしょ。そのおかげでうちの子どもが一番になってしまって。どうもどうも」。きっとこんなことを言われたら、聞いている相手は、不快な思いになることでしょう。
今日の福音朗読の中で、イエス様は二人の祈る人をたとえに出して、「神様にとって喜ぶ祈り」、神様が「良い」と考える態度を教えてくださいます。そして、神様が喜ぶ態度は、しばしば、私たちが「良い」と思っている態度とは違うのです。
最初に私が話したたとえに戻りますが、親の中には、こう考える親もいると思います。「あの時、うちの子どもには、転んだおたくの子供さんをちょっと心配して欲しかった」。自分さえ良ければいいと考えるのではなくて、友達のことを心配する子どもに育って欲しいと願う親もいると思います。
もし、こんな会話でしたら、お互いに素直に聞くことができたでしょう。そして、二人の会話はもっとすばらしい会話になったでしょう。私たち人間の中にも、聞いて不快に思う会話と、聞いて素直に喜べる会話はあるものです。
私は思いますが、神様は「聞いて喜ぶ祈り」と「聞いても不快に感じる祈り」の違いはもっとはっきりしているのではないかと思うのです。それは、神様は私たちの祈りをいつも注意深く聞いておられるからです。その人がどんな気持ちで祈っているかも、よく知っておられるからです。祈りの言葉を言う前から、その人の心の中を知っているので、「聞いて喜べる祈り」にはたくさんの恵みをくださり、「不快な祈り」は返事をしないのだと思います。
それでは、具体的に、ファリサイ派の人の祈りには、神様はどう答えたのでしょうか。きっと、「それがどうした?」と返事をしただろうと思います。週に二度断食をしても、すべての収入の十分の一をささげても(規則では、「すべての収入」の十分の一を納める義務はありませんでした。ですから、この人は胸を張っていたのです!)、神様にとっては嬉しくなかったのです。そんなことは神様に祈るのではなくて、広場で大勢の人に威張りなさいと言いたかったかも知れません。
徴税人の祈りには、どんな返事をしたのでしょうか。きっと、「あなたは本当に良い祈りをしてくれた。わたしはあわれみ深い神だから、あなたが言ったとおりに、あなたを心からあわれみ、ゆるしましょう」。神様はきっと、いろんな慰めの言葉をこの徴税人の心の中に届けてくださると思います。
ファリサイ派の人の祈りは、何が間違っていたのでしょうか。考えてみたのですが、彼は「罪人は、神様に正しい祈りをささげることなんてできない」と思っていたのではないでしょうか。私のような正しい人が、神様にふさわしい祈りをささげることができると思っていた。
これは、間違っています。神様は、すべての人を創りました。だから、すべての人は、神様を愛する心、神様に祈る心を持っているのです。どんな罪人も、心からの祈りを、正しい祈りをささげることができるのです。
ファリサイ派の人は、徴税人を見下しました。それは言い換えると、「神様に創られた人」を見下しているのです。徴税人は罪人かも知れません。けれども、もし心を大きく開くことができたら、一緒に祈ることもできたのです。「そんなに隅に立っていないで、祭壇の近くに行って一緒に祈りましょう」。
私たちの周りを見てみましょう。「あの人より私の方が優れている」と思うことはないでしょうか。けれどもあの人も、私も、結局は「神様に創られた同じ人間」なのです。
もしも、「あの人は、教会の隅っこに座っていてほしい」などと思ったら、私たちはファリサイ派の人と同じです。「どうしてあの人が、堂々と教会の仕事をしているのだろうか」と、心の中で悪いことを考えたら、私もファリサイ派の人と同じなのです。
しっかり、これまでの自分を反省しましょう。私の祈りも、罪深い人の祈りも、神様の前では「祈り」なのです。私の活動も、罪人の活動も、神様は差別しないのです。
一生懸命のつもりでも、神様は喜んでくださらないと意味がありません。みなが思っていることを素直に祈れるように、みなが神様のために働くことができるように、私も心をもっともっと開きましょう。「自分が正しい」と思っている人は、神様の前では「正しい人」ではないのです。