主日の福音2001,10,21
年間第二十九主日(Lk 18:1-18)
不正な裁判官は神を恐れた

今日の福音朗読の中で、気をつけないと読み過ごしてしまう言葉があります。イエス様が、たとえ話に登場させた「不正な裁判官」についてです。イエス様は、「ある町に、神を畏れす、人を人とも思わない裁判官がいた」と紹介しています。

ここで仰っている「神を畏れず」という言葉なんですが、夢でうなされるとか、交通事故を起こしそうになったとか、そういうときの「恐い」ということではありません。「聖書と典礼」をお持ちでしたら、あらためて読み返してみてください。「畏れる」というのは、尊敬の気持ちから、おそれおおい気持ちになるということです。

そこで、この不正な裁判官の態度を振り返ってみましょう。「ある町に、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた」。この裁判官は、その町の有力者だったかも知れません。この裁判官の機嫌を損ねると、裁判の行方に響くほど、気まぐれで、身勝手な人だったのでしょう。

人を人とも思わない、そういう身勝手な人が権力を持ってしまうと、周りの人は大変な目に遭います。その有力者にびくびくおびえながら暮らさないといけないからです。機嫌を損ねないようにとか、もしかしたら賄賂を使ってでも、その人に気に入られようと必死になるかも知れません。

そんな中で、一人のやもめが自分を守ってくれるようにと裁判官に頼み込みます。ここで、やもめが裁判官にうるさく迫る様子を、はっきり目に焼き付けておきましょう。彼女は、夫を失って、周りの人の親切に助けられながら暮らしていた人です。その当時のユダヤ社会で、バリバリのキャリアウーマンなんていやしません。きっと、働き口もなかったことでしょう。

そうであれば、彼女にはもはや失うものがないのです。もう失うものがないのですから、自分を守ってくれそうにもない裁判官であっても、恐れずに要求していきます。

恐ろしいかどうかで言えば、権力に身を固めた人よりも、失う物がなくなった人のほうが恐いのではないでしょうか。裁判官は、いちばんたちの悪い種類の人間でしたが、彼女は失うものを持たない、ある意味で恐いもの知らずだったのです。

私は、ついこの前の月曜日、「親分はイエス様」という映画を見に行ったのですが、この映画、本物の極道だった人たちが、クリスチャンの妻の祈りによって変えられ、また牧師に導かれて、大胆にイエスキリストを知らせる人となっていくという筋書きなのです。

「恐い」「恐ろしい」ということで言えば、極道の世界の人々は、それはそれは恐ろしいだろうと思います。けれども、この人たちが、すべてをなげうって改心したらどうでしょう。イエス様を告げ知らせる人に、すっかり変わってしまったらどうでしょう。暴力に身を固めていた頃の生き方、極道だったときよりもある意味で迫力があるのではないでしょうか。

映画のモデルになった人たちは、まるで不正な裁判官のような人でした。神を畏れず、人を人とも思わなかったその人たちが、もう失うものは何もない、そんな気持ちでイエス様を告げ知らせるわけです。それはもう、ものすごく迫力があるわけです。

もう失うものはない、その気持ちが真実なものであれば、まことの祈りに導かれていきます。一週間祈って与えられなかった。一ヶ月願って与えられなかった。もし、本当に失うものが何もない人であれば、さらに願い続けるでしょう。うるさく、しつこく、半年でも一年でも、もしかしたら十年でも願い続けることでしょう。もう何も失うものがないのですから、それが与えられるまで願うのです。

裁判官は、最後にはこのやもめを恐れたのではないでしょうか。人を人とも思わなかったこの裁判官は、この世で最も弱い立場の女性を恐れたのです。そして、その先が一番大切だと思うのですが、この不正な裁判官が本当に恐れたのは、やもめを突き動かしている神への深い信頼だったのではないでしょうか。彼女は、何も失うものがない女性であっただけでなく、そうであるからこそ、神に絶対の信頼を置いていたのです。裁判官は、やもめを後ろで支えている神の力を、最後には恐れたのです。

今日のたとえの目的ははっきりしています。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」です。何も失うものがない、そんなつもりになって私たちは祈っているでしょうか。必ず与えられるのに、しばしば気を落としているのではないでしょうか。

今週、祈りのすばらしさを深く味わうことができるように、ミサの中で恵みを願ってまいりましょう。