主日の福音2001,10,14
年間第二十八主日(Lk 17:11-19)
今を心から感謝しよう

今日の福音朗読の中で、重い皮膚病を患っている十人の人が、イエス様に声を張り上げて憐れみを乞い求めます。今日皆さんに分かち合う内容は、ちょっと私個人の意見が入っているかなあ、と思うのですが、こんな見方はどうでしょうか。

十人のうち、九人はユダヤ人、一人は外国人のサマリア人です。彼らは重い皮膚病にかかっていて、いまでいうハンセン病ということになるのでしょうが、この病気にかかっている人はユダヤ教社会でも、健康な人に近づくことが禁じられ、共同体の外に住まなければなりませんでした。

この十人が十人とも「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶわけですが、願いの中身は、同じものだったのでしょうか。私は、九人のユダヤ人は願いが同じでも、サマリア人が願っていた中身は、九人とは違っていたのではないかと考えました。

どうしてそういうことを考えたかというと、ユダヤ人社会の中で、ただ一人サマリア人が混じってイエス様に叫んでいることに注目したいのです。最近地区集会で話していますが、聖書を読むとき、「大勢の中で、一人とか、一つを取り上げているときは大事ですよ」という、あの形に当てはまっています。

ユダヤ人が、ユダヤ人社会に叫ぶことと、外国人が、ユダヤ人社会に上げる叫びとは、違ってくるのではないでしょうか。同じように、重い皮膚病にかかっている九人のユダヤ人が、ユダヤ人イエス様に願うことと、外国人(ここではサマリア人ですが)がユダヤ人イエス様に願うこととは、多少違うのではないか、そう考えたわけです。

純粋なユダヤ人が、ユダヤ人イエス様に「憐れみでください」と叫ぶときは、自分があわれな民族とか、見捨てられた民族という気持ちは、更々ないと思います。大変な病気にかかっているけれども、私は神様が選んでくださったユダヤ人だ。だから、憐れみを受けて当然、救ってもらって当然だという気持ちが、どこかにあるのではないでしょうか。

ところが、外国人、また、ユダヤ人の礼拝から閉め出されていたサマリア人にとっては、社会からも締め出され、礼拝でも差別を受け、さらに重い病気にかかっているわけですから、何重もの思いでイエス様に願い求めていたのではないでしょうか。

その結果ではないかと思うのですが、イエス様が十人すべてに憐れみを注いで、重い皮膚病を治してくださったのですが、感謝しに来たのは、サマリア人ひとりでした。ほかの九人にとっては、憐れみを受け、いやしてもらうことは、選ばれた民族であるユダヤ人にとって当然だと思ったのでしょうか。「神を賛美するために戻ってきた」(v.18)このサマリア人は、病気からも、社会の差別からも、無条件で解き放ってもらったことを知り、いてもたってもいられずに戻ってきたのでした。救いの恵みが、民族のゆえにではなく、無償で与えられることを、証しするために戻ってきたのです。

何かを当たり前だと思い始めたとき、それは自分の手から滑り落ちていくものなのかも知れません。「ほかの九人はどこにいるのか」(v.17)。恵みを当たり前と思ったか、と言わんばかりの厳しい言葉です。それだけに、大声で神を賛美しながら帰ってきたサマリア人が際だっています。

当たり前という気持ちは、私たちから感謝を奪ってしまいます。夫婦の間で、親子の間で、出会う人との間で、何かを当たり前と思うとき、そこに奇跡が起こっていても感謝できずに終わってしまうのです。感謝することの少ない日常生活になってはいないでしょうか。

ミサの中でも、私たちは「神に感謝」という言葉を使っています。「神に感謝」と言っているのですが、誰に感謝しているのでしょうか。私たちはもう当たり前になってしまって、言葉は上の空になっているかも知れません。
 私たちの生活、多くの人との出会いは、当たり前で進んでいるわけではありません。生活に心から感謝できるように、今日のミサの中で「ぜひ感謝したい」何かを見つけたいものです。