主日の福音2001,10,7
年間第二十七主日(Lk 17:5-10)
生きてさえいれば何とかなる

今日の福音朗読の中で、イエス様は「たいへん小さいもの」を取り上げて話をしておられます。からし種がそうなんですが、ここでは、からし種がどんなもので、大きさがどれくらいか、そんなことは問題ではありません。ここで問題にしておられるのは、「たいへん小さい」ということ、その一点だと思います。

この、「たいへん小さなもの」をイエス様は高く評価して、「からし種一粒ほどの信仰があれば…」と話を続けます。信仰についての話ですから、信仰がある、それが大切なことであって、からしの種ほどであっても、その信仰は神様の前に忘れられることはないという、大切なことを教えてくださっています。

信仰は、神様に向かう心以外の何物でもありませんが、神様に向かう心というのは、からし種ほどであっても、神様は決して見落としたりなさいません。私たちが、たとえ自分の信仰を否定して、あるいは卑下して、「わたしは信仰がありませんから」と言ったとしても、信仰の恵みを一度でもいただいた人の中には、小さな小さな種が植えられてます。

これは、素晴らしいことではないでしょうか?神様に向かう心が、種一粒ほどでもあれば、神に見捨てられていないのですから、生きていくことができます。人が、どれだけあなたを見捨てたとしても、人と人との間には信仰などあり得ないのです。イエス様ははっきりと、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と仰ったのです。

さてそれでは、「抜け出して海に根を下ろせ」と植物に言って、たとえば教会の周りの、槇の木に言って、その通りになるのでしょうか?

「海に根を下ろします」と言い切りたいところですが、それはわたしの口からは言いきることはできません。ただ、それと変わらない、あっと驚くことはあり得ると、言っておきたいと思います。神様に向かう心が、少しでもあれば、それを決して見落とさない神様が、あっと驚くわざを示してくださるのです。

たとえば、わたしたちは見聞きする範囲でも、たくさんの人が命の危険にさらされていることを知っています。不況の最中ですから、明日はないと思っている人もきっといるでしょう。または、極度の不安の中で、生きていても仕方がないと思っている人もおられるかも知れません。

こんな、ちょっとやそっとでは手を差し伸べられそうにない状況にある人に、私たちではとても「明日」を与えてあげることはできません。けれども、神様はそんな苦しみの中にある人に、「明日」を、「もう一度生きる」ことを与えてくださる、からし種ほどでもご自分に向かう心のある人を、神様は決して見落とすことがないからです。

どんな小さな信仰でも、神様に向かう清い信仰は、神様が見落としたり見捨てたりするはずがありません。人の目をちょっと気にした信仰とか、自分の気持ちが納得する信仰とかはここでは問題になりません。ただ、純粋に神様には見ていて欲しい、そんな、絶対的な信仰が、ほんの少しでもあれば、神様にとってはそれでオッケーなのです。

けれども、人間は見える何かを気にします。どれくらい小さな信仰でも、神様は良しとしてくださるのでしょうか?

私は、その答えとして、「生きてさえいれば」と言いたいと思います。信仰を得て、最初は熱心であった人が、あとで教会を顧みなくなることもあります。洗礼を受けたは良いけれど、みなさんの中に入れなくて、結局は一度も教会の敷居をまたがずにここまで来た、そんな人がいるかも知れません。

それが正しいことだとは言いません。どう見ても不正かも知れません。けれども、そんな人でも、一回は神様に心を向けた人です。神様がその人を知らないとは言わないのではないでしょうか?

どんなに小さくてもいい、あなたの中に、「生きた証」つまり「神様に心を向けた」小さな思い出があれば、神様はきっとどこかで拾ってくださいます。生きてさえいれば、神様は拾ってあげることができるのです。

誰も、からし種ほどの信仰を疑うことはできません。あとは、「生きてさえいれば」神様が何とかしてくださいます。その上で、神様に向かう心が、さらに育つなら、なおいいことです。あなた自身の成長、あるいは、ほかの方の信仰を思いやるような成長の仕方を、一人ひとり願いましょう。