主日の福音2001,9,30
年間第二十六主日(Lk 16:19-31)
「門」は「淵」でもって「心の扉」

今日の福音朗読の中で、同じ使い方をしている言葉があります。金持ちと、貧しい人ラザロが生きているとき、二人のあいだにあった「門」と、死んでから、金持ちとラザロのあいだにある「淵(ふち)」です。この、「門」と「淵(ふち)」は、別々の言葉ですが、使い方は同じです。つまり、金持ちと、貧しい人ラザロの間にある「壁」のようなものです。

わたしは、今「壁」と言いましたが、おかしいなあ、と思うでしょう。「門」は、人が出入りする場所ですし、「淵(ふち)」は、泳いだり、小さな舟に乗れば、渡ることができるからです。けれども、今日の福音の中では、「壁」のような意味で使われています。皆さんもそれは分かると思います。ラザロは、門を通って金持ちの家に入ることができませんでしたし、死んでから両者のあいだにある淵も、「渡ることができない」という説明が加えられています。


本当は、出入りするための「門」、渡ることができる「淵(ふち)」ですが、どうして、それができなくなったのでしょうか?少なくとも、生きているときに両者のあいだにあった「門」の場合は、金持ちは門の外に出て、外の社会を見ようとしなかったのでしょう。ラザロは、入りたいと願っていましたが、招いてもらえませんでした。もしかしたら、ほかの金持ちの友達は、門を通って中に入っていたかも知れません。


ところで、金持ちは死後に、「ラザロを兄弟たちのところに遣わしてください」とアブラハムに願いました。死んだ人が復活して、兄弟たちに教えてくれれば、心を入れ替えると考えたのです。けれども、アブラハムは、「死んだ人が生き返って注意をしても、言うことを聞かない」と言って、断ったのです。


このとき、金持ちは一つのことを忘れていたと思います。金持ちの家には、自分が生きていたときと同じ「門」が、そのまま立っていることを忘れていました。自分が生きているときに、外の社会を見に行こうとしなかったあの「門」が、まだ立っていることを忘れていました。確かに、外にいるいろんな人を招こうとしなかった「門」がある限り、ラザロが生き返っても残っている兄弟たちは心を入れ替えないと思います。


実は、この「門」は、私たちの心と関係があります。家と、外の世界のあいだにある普通の「門」という意味だけではありません。私の心と、外の世界の人々の間にある「心の扉」「心の門」という意味で考えて欲しいのです。


もしも、自分のことばかり考えて、外の社会の人々の話を聞かなかったり、完全に心を閉ざして、困っている人や、助けを必要としている人から目を背けてしまうなら、わたしはあの「金持ち」と同じことをしているのです。本当は、たくさんの人が「出たり入ったりする」ための門なのに、私が、心の門を閉めてしまうと、あの金持ちと同じ人になってしまうのです。


金持ちとラザロは、まったく反対の生活をしていました。豊かな暮らしと、貧しい暮らし、自分の財産に頼って生きる暮らしと、何も頼るものがなくて、神様に一日一日を任せていた暮らし。門の外を見ようとしない暮らしと、門の中にいる人の、食卓から落ちるものを希望する暮らしです。わたしは、外の社会にいる、いろんな違った人を、心の門を開いて見ようとしているでしょうか?心を閉ざして、私と違う暮らしをしている人を、見ない、受け入れない、そして、断っているでしょうか?


今日のイエス様のたとえは、門の中と外、両方をよく見なさい、両方の声をよく聞きなさいと教えています。心の門を開いて、いろんな人を受け入れることができるように、願いましょう。私と考え方が反対の人もいます。いろんな人がいます。たくさんの人を、心の門を開いて招くことができるように、今週一週間、神様に願っていきましょう。