主日の福音2001,9,16
年間第二十四主日(Lk 15:1-10)
99対1であっても

ニューヨークのテロ事件があっている中で、野球の話もどうかと思いますが、皆さんが野球の監督だとして、自分のチームが、1対99で負けているとしたら、監督として選手のために何をしてあげることができるでしょうか?

「早く終わって、さっさと帰ろう」とか、やみくもに選手をおごり飛ばす、そんな監督は別としても、良心的な監督であれば、圧倒的な大差であっても、選手に何か声を掛けてあげることでしょう。


ただ、どんな声を掛けてあげるかなあ、となると、監督である皆さん一人ひとりの個性が出てくることでしょう。99点取られて、1点しか返せなかった選手たちがいます。それはまぎれもなく、自分が育て上げた選手たちです。きっと、しょんぼりしていることでしょう。出すピッチャー出すピッチャー、みんな打ち込まれて、ヘトヘトになっているかも知れません。


そんな中で、「さあ、元気を出せ」とか、「君たちを誇りに思っているぞ」とか、選手たちが最後まで精一杯試合を続けるなにがしかの声を掛けてあげることができるでしょうか。


弱気な監督ほど、うろたえるものです。こういう時に、気の弱い監督ほど、「何やってんだよー。いや、いかんいかん、から元気でも励まさなきゃ」そんな気持ちで選手に接するのかも知れません。こうした監督には、選手と最後まで喜びも苦しみも分かち合うとか、そんな気持ちが欠けていると思います。


けれども、皆さんの中には、どんなに選手が打ちのめされていても、選手を信じて、最後まで力を出し切るために、一生懸命になる方もいらっしゃると思います。今日まで汗まみれになって一緒にやってきた子供たちだ。結果は辛いけれども、広い心で選手を受けとめてあげよう。そんな心の広い、頼れる監督です。


気弱な監督と、結果を全身で受けとめてくれるりっぱな監督との違いは、選手との深い信頼だろうと思います。君たちは立派だった。いいところを出して上げられなかったのは、監督の私のせいだ。君たちは、本当に立派だった。監督のこうした言葉が、選手の心に本当に届くとしたら、それは、選手と監督のあいだに、深い信頼があるからではないでしょうか。


さて、野球の監督の話は、そのまま、イエス様のたとえを置き換えたものです。羊飼いにたとえられているイエス様は、99対1で、圧倒的に不利な「見失った羊」を探しに行きます。羊は打ちひしがれ、完全に希望を失っていたことでしょう。


ですが、羊飼いはまだ姿を見ないうちから、羊の名前を呼んで、励まし続けます。羊にとって、声は聞こえますが、まだ姿は見えません。それでも、最後まで希望を捨てないで、羊飼いを待ち続けることはできます。必ず見つけだしてくれる。迷子になって、迷惑をかけているけれども、自分のことを決して見捨てないかただ。そういう深い信頼があるのです。


羊飼いも決して諦めません。きみは、私にとってかけがえがないのだ。そこではもう、羊の持ち主と、持ち物という関係ではなくて、私とあなた、そんな、親しいあいだで羊を思い続けてくれるのです。


イエス様と私たち。私は、どこまでもイエス様を信頼しているでしょうか?99対1でしょんぼりしているとしても、私は下を向く必要はありません。イエス様は、気休めではなくて、本当に、私をかけがえのないものとして、受けとめてくださるのです。


何をおいても、私を捜し求め、声をかけてくださるイエス様。社会の荒波の中で疲れ、打ちひしがれていても、イエス様は私を見つけて、「よくやった。本当に立派だったよ」と言って下さいます。


今週は数千人とも言われる人の命が失われました。希望を持てといわれても、それこそ99対1の状況でしょうが、どんな場面でも希望を与えてくれるイエス様です。過ぎた一週間と、これからの一週間をお任せして過ごしていくことにいたしましょう。