主日の福音2001,9,9
年間第二十三主日(Lk 14:25-33)
十字架を担っていけるわけ

今日の福音朗読の中で、「もし・・ならば、わたしの弟子ではありえない」という言い回しが3回も出てきました。一つの話の中に、同じ言い回しを三回も繰り返すということは、大切な呼びかけがそこに含まれていると考えるべきです。

特に最初と二つ目は大切です。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、さらに自分の命であろうと、これを憎む」この言い方と、「自分の十字架を背負ってついてくる」ということが、ほとんど同じであるかのような扱いをされています。


ですが、皆さんの中には、先の二つの中身が、ほとんど同じことを言っているなんて、にわかには信じがたいと思われる方もおられるのではないでしょうか。イエス様の弟子になるために、自分の十字架を背負ってついてくる。それはそれでいいでしょう。ですが、十字架を背負ってついてくる、それはつまり、自分の父、母、妻、子供、兄弟姉妹を背負ってくることだよと言われても、それはちょっとねぇ、と思っておられるのではないでしょうか。


私たちの身の回り、家族、親戚を見渡すと、ときおり、あの兄弟以外はいいんだけどなあとか、あの子供のことは親として頭が痛い、そんな現実にぶつかることがないでしょうか。迷惑をかけているある人、または、人一倍苦労させられる人が、一人や二人はいるものです。自分の家族、親戚を誇りに思っているけれども、それは、あの人を除いての話、あの人がもう少ししっかりしていれば、そう思うときに、迷惑と感じる人が、重荷に感じられるわけです。


関わりたくない、そう思うわけですが、現実から逃げられるはずもありません。イエス様は、そこで私たちに、あなたが重荷と感じている、その兄弟を真っ先に認めて上げなさい、あの人がいなければではなくて、あの兄弟、あの姉妹が、まずは私が担っていく現実です、そう心に決めなさいと、私たちに勧めておられるわけです。


まあ、それでも私たちはこぼしたい気持ちもあるでしょう。できれば、私はあの人とは関わりたくないのですと。イエス様はどう考えておられるでしょうか?


イエス様は、もうすでに、今の私たちに答えを残してくださいました。私は、あなたたち一人ひとりを、十字架上で担いました。二千年前に、あのゴルゴタの丘で、私があなたを担ったのです。だから、あなたたちも、父、母、妻、子供、兄弟姉妹を、担ってあげてください。あなたたちはみな、わたしに担ってもらったのだから、わたしに倣いなさい。


私たちは、これまで、自分の十字架をちゃんと担ってきましたよ、そう思っていたかも知れません。けれども、身近なところに、それは家族や、親戚の中に「あの人とは関わりたくない」という強い思いをもっているとしたら、それこそ、イエス様の誠の弟子になるための妨げとなっているものなのです。


イエス様は、「憎まなければ」と仰ったのですが、それは、父、母、妻、子供、兄弟姉妹のことで、関わりたくないという独りよがりな思いを、憎みなさいと言っておられるわけです。
これまで、目の上のたんこぶとか、厄介者扱いしていた人が、家族や兄弟、親戚の中にいるかも知れません。もうすでに、痛みを感じているかも知れません。イエス様はそういう人に真っ先に近寄ってくださり、大丈夫、結果を担っていくことは恐くないよ、きっとできるよ、先に私が、あなたを担ってあげたからねと、励ましてくださいます。

結果を避けようとしていたら、そういう自分に打ち勝って、イエス様がいっしょにになっておられることを思い起こしましょう。その人を、十字架として担っていく。イエス様が私を、本当の弟子として迎えてくださる通り道だと心得て、正面から向き合っていくことにいたしましょう。