主日の福音2001,9,2
年間第二十二主日(Lk 14:1,7-14)
神に高められるきっかけを知って

夏の間に五島に帰省したときの話です。台風が気になっていたので、月曜日に帰る予定を繰り上げて日曜日に帰ったわけですが、帰ってみると家には父ちゃんと次男の弟がいるだけで、母ちゃんは大村に出かけているということでした。母ちゃんは台風でおそらく水曜日までは帰れない、そのあいだは弁当を食べるしかないというのです。

うっそー!と思いまして、肉と野菜を買ってくれば、焼き肉くらいはできるだろうに…と思ったのですが、面倒なのか、その手間もとろうとしません。父ちゃんも弟も、弁当以外にないといったあきらめ顔でした。あー、三日間も弁当を食わされるのかなあ、そう思っていたら、野郎ばっかり3人いても、まったく無力だなあ、そう思ったわけです。


この、無力感とか、非力かんとかいった体験は、今日の福音を味わうために、役に立つかも知れません。人は、無力感、自分の力不足、あるいは欠点などを受け入れるときに、もっと力強い誰かに目を向け、自分を向上させようとするものです。イエス様はそのあたりから私たちを案内しようとしています。


「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」
(14:11)。宴会に招待されたとき、末席に座ることで面目を保つたとえは、もっと先へ私たちを案内するための導入であろうと考えています。自分は、そんな大それたものではない、謙虚に末席に座ろう。そういう心構えが、招待してくれた人に取り上げてもらえて、高められることになります。ただそれも、人間同士のあいだでのこと、という前提があります。

イエス様は、実は、もっと高いところに私たちを案内しようとしているのではないでしょうか。それは、自分が謙虚になることで、謙虚な生き方を探し求めるすべての人を取り上げてくださる神に心を向けなさいということです。私たちは、謙虚な生き方で、人に取り上げてもらってそこで満足するのではなくて、最終的には、神に取り上げてもらうことをこそ、願うべきだ、という思いが、イエス様の中にはあるのではないでしょうか。


そう考えてみると、私たちの中に、人間は無力だなあ、といった体験があることは、素晴らしいことだと思います。へりくだるきっかけを持っていることで、人は振り返って、神に心を向け、神に高めてもらう生き方を求めていけるようになる、そういうきっかけをもっているからです。


私たちは、カトリック信者として、神を信じるものとして、本当に報いてくださるのは神だと信じているわけですが、そうであれば、神に報いてもらうことだけを、最終的には価値のあることとして考えるべきだと思います。誰かに「さあ、もっと高いところへ」と取り上げてもらうこともあるでしょうが、そういう人間同士の偉い偉くないを越えて、神様に高めてもらう生き方を、探し求めるべきだと思います。


私は、本当に報いをくださる(高めてもらう)方は神であることをじゅうぶんわきまえて、神に取り上げてもらう生き方を探し求めているでしょうか。そのような生き方に価値を見いだすものとなれるように、今日のミサの中で、照らしを願うことにいたしましょう。