主日の福音2001,8,26
年間第二十一主日(Lk 13:22-30)
あなたは今、狭い戸口を通れるか
今日の話は、夏の思い出という感じで話してみたいと思います。中学生の黙想会というかたちで、休みに入る直前、第二土曜日と日曜日で一泊黙想会をしましたが、その日の午前中、わたしはその日の夕食の買い出しを、楽市でこなしていました。
たいてい釣り餌ぐらいしか買い物したことありませんので、どこに何があるやら、また十五人近くの子供たちの材料を買うということはどういうことなのか、さっり見当もつかないまま、適当にカレーの材料をかごに投げ込み始めたわけです。
当たり前のことですが、カレーの箱に5人前と書いてあれば、まあ、そのカレーを3箱買うわけですね。野菜も買う、お米も買う、しまいにはデザートも買わなきゃあと、次から次に買い込みまして、まあ見事な量の買い物になりました。
レジを通るまではよかったのですが、さてこの買い物を袋に詰めて、車まで運ばないといけない、あーどうしようかと思ったら、神様はちゃんとしてくださるんですね。顔見知りの方が手伝ってくれまして、ようやく買い物の労苦から解放されました。
あの買い物、もしも最初から最後までひとりで済ませようと思えば、まあそれはできないことはないでしょうけれども、きっと車に乗り込むまでに一波乱あっただろうと思います。たとえば、買い物袋が破れるとか、出入り口を通るときに人様に触れて、迷惑をかけるとか、いちばん考えられるのは、両手に山のように抱えたままで、どうやって駐車場にある車のドアを開くか、そんな心配がたくさんあったわけです。
自動ドアの、あの広い出入り口ですら、こんなことが起こりうるのですから、出入り口が狭かったら、どうなることでしょう?今日の福音は、そういうことを私たちに問いかけているのではないでしょうか。別に買い物袋を下げていることが問題なのではなくて、イエス様が仰るように、人が救われていく戸口が、狭い戸口だとしたら、両手に荷物を抱えてなんて、とても入れないのではないでしょうか。
たいてい、両手に荷物を抱えると、横に荷物が膨らむものです。それでは確かに、狭い門を通ることはできないかも知れません。イエス様が、「狭い戸口から入るように」と仰るのですから、少なくとも、「あれも持っていきたい、これも手放せない」と言っていては、救われるものも救われなくなるのではないでしょうか。
さらに、考えるべきことがあります。イエス様は、実際問題、狭い戸口というたとえを通して、何を仰ろうとしているのでしょうか?わたしは、狭い戸口から入ろうとするからには、はっきりと、イエス様への全面的な信頼、これだけをもって戸口に近づきなさいと呼びかけておられるのではないか、そう思います。
もしかしたら、イエス様の仰る戸口は、いよいよ狭いのかも知れません。両手でこじ開けでもしないと、入れないような戸口だとしたらどうでしょう。そうなると、手にはもう何も持つ余裕などないはずで、ただ一つ、わたしはイエス様を通して救われたい。あなたにすべてを託したい、この一点だけが、私たちに許される持ち物なのではないでしょうか。
この地上で、私たちはたくさんのものを手に入れたり、失ったりするでしょう。それは、イエス様の仰る「狭い戸口」の前に立つときには、すべて、儚いものなのかも知れません。わたしは、その儚いものと、今どのように付き合っているのでしょうか?詰まるところは、この世のものに過ぎないのだという、頭のどこかではきちんとした切り替えができているのでしょうか?そこのところを、今日私たちは問われているのだと思います。
たった一つのものだけが、この狭い戸口を通り抜ける際の持ち物です。わたしは、今このときでも、救いのためにかけがえのないものは、イエス様、あなたに任せようという信仰ですと、はっきり申し述べることができるでしょうか?もう一度、自分の生活を振り返ってみたいものです。