主日の福音2001,8,19
年間第二十主日(Lk 12:49-53)
わたしが地上に来たわけ
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」。イエス様の言葉は、この先、きっとビックリするようなことを話すのだろうなあと感じさせます。
私たち日本人の感じ方として、火は、ものを清めたり、不純なものを取り除いたり、あっという間に焼き尽くしたりと、身近なものではないとしても、力強さやある意味神聖さをみなが感じていると思います。
その、私たちが「神聖」と思っている火を、まことの意味で神聖な方、イエス様がこの地上に投じると仰います。きっとそこには、何かが清められ、不純なものが取り除かれ、神聖なお方の望みに沿わないすべてのものが、あっという間に焼き尽くされるのでしょう。イエス様はそのために、「火」をたとえにおはなしくださったのだと思います。
わたしは、「イエス様そのもの」が、ここで言われる「火」ではないか、と思っています。目に見える火は、鉄のようなものでも溶かし、あるいは鍛え上げ、不純物を取り除くかも知れません。ですがイエス様そのものは、目に見える火にさらにまさって、人間を含むすべてを清め、鍛えていくのです。
イエス様という火は、人としてこの世に生まれ、十字架を通って復活されたことで、この火はすでにこの世に投げ込まれたのです。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。どんなに願っていることか。イエス様がおっしゃるこの「どんなに願っていることか」は、どれほど強い願いでしょうか。これ以上の願いが、考えられるでしょうか。
その火は、既に投げ込まれました。イエス様という火は、私たちの教会の中で、私たち一人ひとりの中で、どうしても必要なものとそうでないものとを選び分け、取り除くために燃え続けているでしょうか。イエス様の救いの働きに反対する考え方や習慣を、燃やし尽くそうと働き続けているでしょうか。イエス様の救いの働きに逆らうけれども、私の中にいつまでもためておいて、燃やし尽くさずにとっておこうとしていないでしょうか。
親の過保護や、この甘えによって、神が清めようとする時間を清めさせまいと抵抗したり、人の目をいちばん気にして、信仰の話を遠ざけようとしたりしていないでしょうか?火が、既に燃えていたらと願っているところに、わたしたちはこの世というバケツの水をかけてはいないでしょうか。
さて、日曜日は、子供たちの球技大会の日です。この日のために、とは言わなくても、この日まで朝のミサに来てラジオ体操をし、また夕方には球技大会の練習をしてと、甘えたりサボったりしたい気持ちを火で燃やし尽くして、鍛え続けた子供たちがいます。
きっとこの子供たちは、球技大会で自分の持っている力を全部出してくれるでしょう。朝も祈った子供ですから、力を全部出し切ることができるように、神様は助けてくださるに違いありません。ただし、そういう感心な子供も「なかにはいた」ということであって、わたしは、もっとたくさんの子供が、イエス様の内なる火によって鍛えられることを願っています。ちなみに、昨年の大会では(種目は違っていましたが)、全員が毎日ミサに来て、ミサ後に練習をしたとある教会が優勝しました。わたしははっきり覚えています。
イエス様という内なる火を、私たちはいただいた者です。この火にバケツで水を掛けることなく、あるいはこの世の風に吹きさらしにせず、移ろいゆくものはあるときは火に燃やしてしまうような、潔い信仰者として生きることができるように、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。