主日の福音2001,7,22
年間第十六主日(Lk10:38-42)
真に必要なものは、イエス様

今日の福音は有名なマルタとマリアの姉妹のお話です。ここではユダヤ教のものの考え方が裏にあって、面白いなあと思います。そのあたりを紹介して、今週の糧とすることにいたしましょう。

その前に、どうしてユダヤ教のものの考え方を知る必要があるか、ということなんですが、それは、イエス様がお暮らしになった場所が、ユダヤ教の教えに沿って生きている人たちの暮らす場所だったということから来ています。


イエス様は、ユダヤ教の限界を突き抜けて、十字架による救いを成し遂げ、キリスト教を起こしてくださったわけですが、今お暮らしになっている場所は、ユダヤ教のものの考え方を知っておかないと、隠された宝をみすみす逃してしまうでしょう。


ものの考え方ということで、身近な例を挙げると、私たちは家に入るときに、履き物を脱ぐ習慣があります。靴のまま上がるなんてことは、絶対に考えられないことです。たぶん、絶対に間違っていると思うでしょう。靴を脱ぐことが、絶対に正しいと思うでしょう。


けれども、靴のまま家の中にはいるのが当たり前というお国もあります。さっきは、靴を脱ぐのが絶対に正しいと思っていましたが、そうしてみると、玄関でのふるまいは、その国その国の、ものの考え方だということになります。


ものの考え方を知っておかないと、私の持っているものの考えを押しつけて、あなたは絶対に間違っている。わたしは絶対に正しいと言ってしまうのです。それこそ間違っているような気がします。


さて、今日の場面で出てくる「ユダヤ教のものの考え」は、男性が、招かれて家に入ってきたときのマナーみたいなものです。イエス様と、迎え入れたマルタとマリアの姉妹の間で、ユダヤ教の教えでは考えられない、非常識なふるまいが起こっています。


二つ、紹介します。マルタの姉妹マリアは、イエス様の足もとに座って、話に聞き入っていたそうです。家族でもないのに、男性が女性と一対一で接しているなんてことは、ユダヤ教のものの考え方では、絶対に考えられないことでした。それは、私たちの考えで、靴を脱がずに部屋の中を歩き回るのと同じくらい、見逃せないことだったわけです。


もう一点、ユダヤ教の考え方で言えばとんでもない振る舞いは、人から「先生」と呼ばれるような方が、女性にじかに教えているということです。人に教えを説いたり、教えを受けたりできるのは、ユダヤ教のものの考え方に沿えば、それは男性だけに許されたことでした。女性は、あとで家族の男性に聞くだけで、直接先生から学ぶなんてことは、絶対に考えられなかったのです。


二つ取り上げましたが、イエス様は、当時の習慣から大いに外れて振る舞いました。ここには書かれていませんが、イエス様は弟子たちといっしょに、マルタとマリアの家に伺ったのでしょうから、弟子たちは別の部屋で、弟子たちだけでいたのだと思います。弟子たちは、当時の習慣に、忠実に振る舞っていたのでしょう。


イエス様は、ユダヤ教の常識を知らなかったのでしょおうか。そうではないと思います。イエス様は、当時の閉ざされた習慣を突き抜けて、恵みを降り注ごうとされたのです。


そういうことをちょっと押さえて読んでみると、もっと話は面白くなると思います。マルタの姉妹マリアは、イエス様のお話をぽかんとして聞いていたのではありません。気が利かずに(気が利きすぎるのも神経に障りますが)、何もお世話しなかったのではありません。ユダヤ教の教えでは、女性がこうして恵み深い話を聞くことは考えられないのです。それなのに、イエス様は、ユダヤ教の壁を越えて、教えて下さっている。ひとことも漏らさず聞きたいと思うのは当然のことです。


それを踏まえて、イエス様がマルタに呼びかけた言葉を考えるといいでしょう。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
(10:41-42)

今、イエス様は男性と女性の壁を越えて、恵みを注いで下さっている。恵みを前にして、必要なことは確かに一つだけです。その恵みに十分にあずかること、イエス様の恵み深い言葉を、わたしの心に、わたしの家に、わたしの生活にみなぎらせること。真に必要なことは、決してイエス様から離れない、ということなのです。


子供たちの夏休みが始まりました。今年は、間瀬教会のほうから朝のミサとラジオ体操が始まりましたが、しっかり眠い目をこすってきていました。わたしもこれから、あいたたあたた言いながら体操するわけですが、こうして集まる子供たちの姿は、いくらでも朝寝坊していい夏休みに、イエス様から決して離れない、足もとに座って話に聞き入っていたあのマリアと同じではないでしょうか。


私たちも、言葉と行い、生活全体が、イエス様から決して離れないようにしたいものです。真に必要な声に耳を傾けることができるように、今日のミサの中で恵みを願って参りましょう。