主日の福音2001,7,15
年間第十五主日(Lk10:25-37)
あてはめてみてください
ご存知かと思いますが、今日の昼から、一泊泊まりで中学生と黙想会を続けておりまして、そのあいだに、太田尾教会のミサをささげているところです。黙想会は、「聖書を読み、味わう」ということで始まっておりますが、実際のところは、日曜日のミサにあずかったときに、朗読されている聖書を、自分自身とよく結びつけて、もっとよく味わうための訓練・練習ということです。
私たち自身もそうですが、聖書の朗読をこうして聞いていても、なかなか自分の生活や置かれている立場に結びつけて考えるところまでは行きません。何だか遠い世界の話と受け取ったり、話の中で感じて欲しい喜びや悲しみ・痛みを、どうしても実感できないでいます。
たとえばですが、今日の朗読で、エルサレムからエリコに向かう旅人が、衣服をはぎ取られ、殴られて半殺しの目に遭います。半殺しといわれても、私たちはちっとも痛くありません。イエス様にとって、この人の痛みは、たとえを話しかけている律法の専門家をはじめ、すべての人に感じで欲しい痛みではないでしょうか。かわいそうにとか、何かしてあげなきゃあとか、感じることから始まるのです。
実は中学生の黙想会の中でも、この箇所を取り上げたのですが、中学生に旅人の痛みを少しでも実感してもらうために、私はこんなふうに話しました。「この人は棒で殴られました。足を4箇所骨折しました。背骨も2箇所折れました。左腕も2箇所折れました。最初、二人の人が道の反対側を通って避けていきます。言ってしまうこの2人に、声を上げてみましょう」。
ここまで具体性をもたせると、何かを感じてくれたみたいです。もしかしたら、骨折の経験のある人がいるのかも知れません。どうして、こんなに痛い目にあっているのに、自分を見捨てるの?」かなりの子が、自分が倒れていたら、見捨てないでほしいと強く感じて、離れていった人たちに悲しい声を上げました。
近寄って、傷の手当をし、宿屋に連れていって介抱してくれた人にも、中学生は心からの感謝の言葉をかけています。自分が、本当に困って、どうしても助けてもらいたいという立場に立ってみると、聖書の話が自分のこととよく重なってきたのです。聖書の登場人物のひとりに、自分を当てはめていく努力をしてみると、聞く姿勢も、感じる内容も、ぐっと変わってきます。
ちなみに、「今、目の前を通り過ぎた祭司がいただろう。あれは、中田神父様だ。どうする?」と向けてみたら、「走っていって、殴る」と、正直に言ってくれた人もいました。足も腰も、腕も骨が折れているのに、どうやって走っていくのか分かりませんが、殺されかかった旅人は、もう他人ではなくなっていました。
私たちは、この中学生の反応を見て、何を考えるべきでしょうか?ははあ、面白いなあ中学生は、とか、へえ!ですましてよいのでしょうか?もっと、自分たちも、登場人物を自分に当てはめてみるなり、自分の生活に起こっていることを、今日の朗読の中に探してみる訓練を積む必要があるのではないでしょうか。それは、聖書を読むこともそうそう内皮とにとっては、大変役に立つ読み方・聞き方になると思います。
聖書は、自分に起こっていること、自分の中で解決していく問題に光を当てる大切な声です。もっともっと、聖書をしっかりと受けとめるために、練習を積みたいものだと思います。