主日の福音2001,7,1
年間第十三主日(Lk9:51-62)
最優先に神と向き合う生き方もある

今日は一人の音楽家の話から入りたいと思います。高田三郎さんという方ですが、皆さんが手に持っている「典礼聖歌集」、そのかなりの部分がこの高田先生の手になるものです。昨年の十月にお亡くなりになって、もう十ヶ月になります。

実は新しい主の祈りの作曲も、高田先生のものなのですが、私たちが歌い出したのは昨年末でした。生涯に
120曲の聖歌を世に送り出したそうです。

ここにおられるシスター方の中には、高田先生のことをご存知の方もおられるかも知れません。高田先生は非常に気性の激しい方で、わざわざ典礼聖歌の指導においでになって、集まっている皆さんを叱り飛ばすこともたびたびあったようです。

そういう私も、一度だけ福岡の大神学院で指導を受けたことがありまして、いやあ、集まっている人をあれだけ怒っても、文句一つ言われないんだから、得だなあと思ったものです。

もちろん、デタラメに叱っておられたわけではありません。最初にオルガン奏者に音を出してもらって、「さんし」という感じで歌に入るのですが、しょっぱなから、「オルガン。何となく音を出しちゃダメだよ。私たちは神様のことばを歌って神様を賛美するんでしょ。その気持ちではい、もう一回」なんて調子なんですね。なかなか厳しかったです。

たいてい、芸術家はどこかそうした気性の激しさを持っているわけですが、私は、あーこの人は純粋に神様を愛して、神様を賛美して、それが指導にも現れてこうなっているんだなあと思って、どんどん引き込まれていったのを覚えています。もう十年以上も前ですから、あの時は
75歳くらいだったのでしょうか。

さて今日の福音書の中でイエス様は、ご自分についてくる人に、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と呼びかけておられます。この呼びかけは、話の前後からするとたいへん厳しい内容を含んでいました。当時の宗教儀式で最優先とされていたお葬式さえ横に置いて、神の国を言い広めることを優先しなさいと仰います。


同じように、家族へのお別れも理由にならないほど、神の国を言い広めることが、緊急で、優先されるのだと仰るのです。私たちの考えからすると、ビックリするような厳しさかも知れません。


ただ、先に紹介しました高田先生などの例を見ますと、燃えるような熱意で神の国を言い広める−高田先生の場合は、聖歌を通してでしたが−方々は、イエス様に聞き従うことをすべてに優先させた、すばらしいお手本になると思います。

正直な話、先生に叱られてしょげたり、あるいは泣いたりした人もかなりいるのではないかと思います。あるいは音楽家同士で、火花を散らすようなことがあったかも知れません。それでも神様を賛美したい、せっかくなら最高の形で賛美したいという気持ちがそうさせたとすれば、それはそれで、理解してあげることもできると思います。

典礼聖歌に関しては、火の出るような厳しさで指導し続けた高田先生。その生き方は、誰よりも、何よりも、神様への賛美を最優先させた生き方だったのではないでしょうか。

私たちは、生活にどのような順番を付けているのでしょうか?純粋に、神様を最優先する生き方は、もしかしたら大変恵まれた生き方なのかも知れません。生活が保障され、自分以外に何も守るものがないとか、一つのことだけに専念できるように周りが支えてくれているとか、ごく限られた人に与えられた生き方かも知れません。

けれども、私たちも分に応じて、生活を振り返り、どこにどんな順番を付けているのか、考えてみることは大切です。何か困ったことが起こったとき、ある人は貸し借りを第一に考えます。借りて、その場をやりくりしよう。あるいは体を壊したとき、薬を第一に考える人もいるでしょう。

けれどもこれらの人は、もしかしたらこれまでの生活の立て方が、自分に合ってなかったのではないか、ということを先に考える必要があるのかも知れません。立ち止まって神に心を上げ、神のみ手の中に自分があることを確認し、信頼のうちにまた歩き出す。そんな時間を最優先するという手もあります。これなら、私たちにも手の届く勧めではないでしょうか。

工夫すれば、「ちょっと待て、その前に祈りをささげようではないか」「ちょっと待て、私たちは神様の照らしを求めてから事を始めるべきではないか」そんな習慣を取り入れることは十分可能です。

神と向き合うことを、最優先にする。自分なりに、どこかにそれを取り入れることができるように、ミサの中で続けて恵みを願いましょう。