主日の福音2001,6,24
洗礼者聖ヨハネの誕生(Lk1:57-66,80)
恐いときほど感謝しなさい

皆さんは、調子が良すぎて自分が恐いということはないでしょうか?そういう体験が過去にあった、ということでもいいのですが、もし、そうした体験をお持ちでしたら、今日お祝いしている「洗礼者聖ヨハネの誕生」にまつわるお話が、身近に感じると思います。

「恐いくらいだ」という体験は、人間のさまざまな活動の中で起こりうるのですが、たとえば、寝ても覚めても試験試験でお疲れの中学生・高校生。中学・高校の6年間のうちには、ヤマが当たって当たって、恐いくらいの成績を取ることがあるかも知れません。

ついでですが、私は、県下一斉の模擬試験で、順位が一桁になったことがありまして、あの時は先生から、「君、学校のために神学校をやめて、慶応か早稲田を受験してくれないか?」と、本当にお願いされたくらいです。私はその時調子に乗りすぎまして、ちょっと道を外れたという経験があります。

大人の方であれば、そうですねぇ、スポーツの選手で、自分のやることなすことすべていいほうに回転して恐いとか、そういうことはあるでしょうね。もしかしたら、明日の(今現在、土曜日)ミニバレーの選手の方は、調子が良すぎて恐いくらいだと今感じているかも知れません。

ただそうした場合、今の状態をどのように受けとめるかは非常に大切なことです。有頂天になって、自分は何でもできるとか、自分の力を冷静に見ることのできない人は、痛い目に遭うことでしょう。勝負事などは、いつまでも勝ち続けることはできないものです。たとえ十連勝しても、次に勝てる確率は、二分の一以上はないのです。有頂天になっている人は「次も勝てる」とうぬぼれるのでしょうが、冷静になって考えれば、「大負けするかも知れない」のです。

さて今日の福音ですが、ザカリアは普通では考えられないような体験をしました。年老いた妻エリザベトはみごもり、男の子を産みました。当時の習慣に従って割礼を受け、名前を付けようというときに、妻は「息子にはヨハネと付けます」と言い張ります。周りの人たちは、「親戚にはそんな名前の人はいないのに、本気か?」と思ったでしょうが、口の利けない夫ザカリアも、「その名はヨハネ」と書いたのです。

ザカリアは絶好調でした。「主がエリザベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」どころの話ではありません。それはもう、恐いくらいにことがトントン拍子に運んでいたのでした。どうだ、見たか、と考えたとしても不思議はないのですが、ここで有頂天になる人ではありませんでした。冷静に考えると、年老いた妻に子供を授けてくださったのは主なる神でした。この子の名前を、導いてくださったのも神ではなかったでしょうか?ザカリアは、こうした点を決して見逃さなかったのです。

じつは今日の朗読には取り上げてもらえなかったのですが、この直後にザカリアは神を賛美して、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、しもべダビデの家から起こされた」で始まる賛歌を、神にささげています(68節以下)。やることなすこと、すべてがいいほうに回転して、恐いくらいの時に、ザカリアは一番大切なことを思い出したのです。今のこの絶好調の時にこそ、神に感謝をささげるべきだと。

私たちはどうでしょうか?何か、うまくいってしょうがないということがあるでしょうか?でもそれは、有頂天になっていて良いのでしょうか?私は、今こそ、神様に感謝をささげるときだと思います。幸せいっぱいの時間を支えてくださるのは、絶好調を維持できるのは、私の力ではなくて、神の支えなのです。洗礼者聖ヨハネの誕生は、ついつい調子に乗ってしまう私たちに、考えさせてくださっていると思います。

私たちは、苦しいときには最後に神様に行き当たる人もいますが、調子の良いときには、しばしば神様を見失いがちです。洗礼者聖ヨハネの両親が、ヨハネの誕生を通して見せてくれた謙虚な模範に、私たちも見習うことにいたしましょう。調子に乗ったときに、神を忘れないなら、生涯私たちは、神に感謝して生きることができるのではないでしょうか?