主日の福音2001,6,17
キリストの聖体(Lk9:11b-17)
聖体を熱心に拝領し、信仰を養おう
今日は、聖体をたたえる日曜日です。そこで、「聖体に養われて生きる」「聖体の秘跡に、キリスト信者としての活動の力を得る」こんな道を探し求めることにいたしましょう。
ちょうどと言いましょうか、ご聖体に心を向ける材料が、たくさん見つかりました。一つ目は、新聞のせいトマスに、ページのはしに毎月載せている「教皇様のご意向」です。帰りに掲示板をご覧になってもいいのですが、「今月は、このような意向で教皇様と心を合わせ、お祈りいたしましょう」という内容が、毎月出されています。
その、「一般の意向」は、次のようなものでした。「私たちのすべての行動が、聖体に現存されるキリストに、その始めと終わりをもつように」。つまりご聖体に養われて、私たちは道・真理・命であるイエス様を宣べ伝えるし、希望を失った社会にあって世の光となって「愛のあかしびと」となることができます。イエス様の御心の月に、ご聖体の秘跡が深く関わっていることをよく説明しておられると思うのです。
つぎに、皆さんの祈祷書に、最近新しいお祈りが挟み込まれましたね。島本大司教様がお作りになった「宣教する教会をめざして」という祈りです。この祈りの最後にも、「私たちが、御子の聖体に養われ、主の平和のうちにこの世界へとつかわされ、また祭壇へと帰っていく、生き生きとした信仰生活を送ることができますように」とあります。生きた信仰生活は、主の聖体に養われ、主の祭壇に帰っていく、ここに力の源がある、ということでしょう。
新聞はご家庭で読むことによって、祈りは祈祷書を開くことによって、たとえ覚えていなくても思い出すことができますので、しっかり教皇様の今月の祈りの意向と、大司教様のお祈りを通して、聖体に養われて、私たちの信仰の土台が据えられることを意識することにいたしましょう。
さて、三つ目は、島原半島の殉教者に、聖体に養われた生き方の模範を得ることにいたしましょう。
ちょうど、中学生のお勉強が、「島原半島の殉教者」の項目になっていたのですが、お勉強の準備をして、初めて島原半島の殉教者の立派なあかしを学ぶことができました。
島原半島は、かつては日本の宣教活動の拠点として、神学校が建てられ、学生を育てるりっぱな宣教師が送り込まれ、さかんにキリスト教が広まった土地でしたが、豊臣秀吉の禁教令後は、島原の領主は信仰を捨て、それだけでなく、キリシタンの領民を激しく迫害したのでした。雲仙地獄という泥混じりの熱湯に投げ込んだりしたのです。
この迫害の時代に、天草四郎率いる「島原の乱」も起こったわけですが、戦に負けた農民のほとんどはキリシタンで、彼らは最後には、打ち首になったり、堀に生き埋めにされたりして、放置されたわけです。
キリスト信者ですから、平常であれば最後はゆるしの秘跡も受けたかったでしょうし、ミサにあずかって、ご聖体もいただきたいと思ったことでしょう。ですが戦の最中ですから、それも叶いませんでした。それも負け戦となれば、いよいよ残された道はないということになります。
ですが、最近の調査で、分かってきたことがあります。あちこちの土地を掘り起こすたびに、かつての殉教者の骨が出てくるのですが、遺骨はしばしば、下あごのところから「メダイ」が出てきたのです。どういうことか、初めは分からなかったのですが、詳しい調査で次第に分かってきました。彼らは、最後の場面で聖体拝領ができないかわりに、信心のために首からさげていた「メダイ」を口に含んで最後をまっとうしたらしいのです。
これは、すばらしいあかしだと思います。詳しく話すと長くなりますが、イエス様に最後に命を捧げるに当たって、実際の聖体にあずかれなくても、メダイを口に含むことで、聖体を大切にしながら最後をまっとうしたことを、後世に命がけであかししてくれたのです。
私たちも、聖体に養われて生きる力を、ぜひ彼らから学びたいと思います。聖体に養われることが、殉教者の何よりの力の源となったように、生き生きとした信仰生活を送る力の源として、聖体を熱心に拝領することにいたしましょう。