主日の福音2001,6,3
聖霊降臨(Jn14:15-16,23b-26)
何かが分かったと言うことは、聖霊降臨

「温故知新」という言葉がありますが、今週の聖霊降臨のお説教を準備するために、聖霊についての古い時代のお説教を読んでいましたら、なるほどねえ、かつての司教様はこんなたとえから入っていったんだなあと、感心いたしました。今日は二人の司教様、今から1600年も前の司教様が残してくださったお説教から、聖霊について考えてみたいと思います。

一人は、エルサレムの司教だった聖チリロです。彼は、聖霊を説明するために、イエス様が井戸のそばでサマリアの婦人とお話なさった会話に目を付けました。喉の渇いたイエス様は、サマリアの婦人に「水を飲ませてください」と話しかけたあと、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)と仰るのですが、実はここで言われた「水」とは、「聖霊」のことであったと読んだわけです。

イエス様が仰る「水」が、「聖霊」であれば、なるほど話は納得がいきます。イエス様が「聖霊」を与えてくださり、それは、永遠の命に至る恵みの泉となってわき出るようになる。のどを潤す水は何度も口から補う必要があるでしょうが、聖霊を受けた人は、聖霊の溢れ出る恵みに少しでも気づいた人は、渇くことがないわけです。


今話した部分は、司教様のお話で言うとほんのとっかかりの部分だけで、説明すれば時間はいくらあっても足りません。聖霊が、どのようなものなのかを考えるきっかけとして、聞いておいてください。

二人目の司教様は、同じ頃にフランスの(ポワティエの)司教様だった聖ヒラリオです。彼は、聖霊が、神様を知るために与えられることを、分かりやすく説明します。古代の司教様のお説教にはいつも感心させられるのですが、紙と鉛筆がなかった時代に、五感(目・耳・鼻・口・手足)でつかめるようなたとえをよく織り交ぜて話しました。

つまり、こういうことです。目は、もともと、ものを見る力を十分に備えています。ですが、外に光がなければ、十分備えている力も、ほとんど使い物になりません。それは、目にものを見る力がないからではなくて、「見える」ということは、まずは、「外が明るい・光がある」ということがあるわけです。

念を押して言いますが、そこに人が立っていても、動物が横切っても、光がなければ何も見えないのです。これは分かると思います。

耳も同じことで、耳は微かな音でも、敏感に聞き分ける力をもともと持っているわけですが、どんなにいい耳をしていても、外に音がなければ、何も聞こえないのです。テレビの音声を切ったままだと、テレビの中の人がどんなに口を動かしても、何も聞き取ることができないのと同じです。

こうしたことから、聖ヒラリオは、聖霊について考えました。神様は、人間に、ご自身を探し求め、ついにたどり着くだけの力をもともとお与えになってくださっている。けれども、力を備えてくださっていても、それだけではたどり着けない。聖霊は、先にある光のように、あるいは音のように、先にわたしたちに働きかけて神様に向かわせるのだと言うのです。


ここからは私なりのまとめなのですが、「何かが見えた」「何か聞こえた」それに先立って光や音があるように、イエス様が仰っていることはこうではないだろうか、イエス様はこう私に呼びかけておられるのではないだろうか、そう感じるのは、確かに聖霊が働いておられる、聖霊があなたの内にあって、光となり、音となって感じさせてくださっているのです。

つまり、ちょっとでも神様の愛やいつくしみ、神のご計画に気付いたということは、聖霊があなたに降っている、聖霊が「降臨している」ということなのではないでしょうか。イエス様が約束してくださった「弁護者である聖霊」は、イエス様の思い・望みにわたしたちが触れる度に、わたしたちに降り注ぎ、あるいはわたしたちの中で働いておられるのです。


弟子たちに聖霊が注がれたことを記念する今日、わたしたちにもイエス様は聖霊を注いでくださり、神を知り、愛する恵みを強めてくださいます。今日いただいた賜物を携えて、社会に戻っていきましょう。一人でも多くの人が、霊に満たされ、神様をもっと身近に感じることができますように。