主日の福音2001,5,27
主の昇天(Lk24:46-53)
もう弟子たちだけの出来事ではない

今日は、カトリックの教えを簡潔にまとめた本「公教要理(カトリック要理)」から入りたいと思います。この本なのですが、その、67番にこう書いてあります。

「イエス・キリストは御復活後四十日目に何をなさいましたか」「イエス・キリストは御復活後四十日目にオリベト山の上から、弟子たちの前で天にお昇りになりました。これを主のご昇天と申します」。


皆さんも、かつてお勉強したことを思い出した人がいるかも知れません。特に、堅信式のために、中学生くらいの時に一生懸命覚えたという人は多いことでしょう。

本当は当たり前すぎる話なので、取り上げるほどのことでもないかも知れませんが、最近はそうでもなくなってきました。今、正直に申しまして、イエス様はご復活後四十日目に、どうなさいましたかと中学生に尋ねて、すっと答えをもらえる可能性は低いと思います。まずもって、昇天という言葉を思い出させるのが大変です。


ご昇天といえば、かつて堅信組に試験をして、この「昇天」という言葉を思い出させるのに四苦八苦した苦い想い出があります。一対一で行う口頭試験でのことだったのですが、「イエス様は、ご復活後四十日目に、どうなさいましたか」と尋ねました。するとその子供は、うーんとうなったまま、何も言わないわけです。「ほらイエス様はマリア様から生まれて、30歳ころから宣教を初めて、33歳くらいで十字架にかかって亡くなり、三日目に復活しただろう?そのあと四十日目に、どうした?」


普通はこう聞きますよね。その子はもう諦めたのか、分かりませんの一点張りです。試験官の私の方は、どうにかして答えてもらいたいものですから、「ほら、天にさ、父なる神のもとにさあ、行くたいねえ」「分かりません」「いや分かりませんじゃなくて、天に昇っていくことを何と言うね?」もう最後は答えまで言ったのですが、それでもダメです。


私はしびれを切らして、最後の切り札を出しました。「いいか、神父様の歌う歌をよーく聞いとけよ。タッタタ タタタタ タッタ。これは何だ?」皆さんおわかりですか?これ、日曜日の5時半頃にテレビであっている「笑点」という番組のお決まりの曲です。


その子は、ここに来てようやく気が付いたらしくて、「あ、神父様分かりました。『笑点』です」。と答えます。わたしの歌を聞いて、ご昇天を本当に思いだしたかどうかは定かではありませんが、私は過去に何度も、当落ギリギリの子供を「タッタタ タタタタ タッタ」で救ってきました。


ついでの話ですが、私たまたまここ数日間、ボートの四級免許講習に出かけておりまして、まったく畑の違うことを習うものですから、いろんなことで感心させられます。


たとえば、船に乗って出かけるときは、天気のことをある程度把握しておかなければなりません。この天気でですね、先生が、「皆さんこれは常識で覚えておいてくださいね。天気は西から東に崩れていきますよ」と仰ったんです。私は生まれて初めて、「あー、天気は西から変わっていくのかあ」と、初めて知ったんです。皆さんの中には、「えー!神父様そんなことも知らなかったんですか?」と仰る方もいるかも知れません。お恥ずかしい話、本当に知らなかったんです。


そう言われてみれば、太田尾の波止場に立っていたら、海の向こうのほうから雨が降り始めて、波止場のほうに向かってきます。言われてみれば、天気を心配するときに、沖のほうを見て「まだ保つかなあ」と考え考え、釣りをしていました。


何を言いたいかと言いますと、今日お祝いしているご昇天、これも、今どきの中学生、またそれ以下の子供たち、あるいは大人になって洗礼を受けようとお勉強する方にとっては、それほど当たり前のことではなくなってきているということなんです。それこそ、「天に昇ったことを何というか」と聞くよりも、「タッタタ タタタタ タッタ」に結びつけたほうが思い出せるという子供のほうが増えてきているのです。


ご昇天について、一つの点だけ紹介しておきましょう。イエス様が天に昇られたということは、それまでのイエス様の出来事、弟子たちにとっては、奇跡を行い、権威をもって話し、病気の人を見舞い、弱い人を助けたあのイエス様が目の前から姿を消したことになります。ただし、目の前から消えたとは言っても、心にしっかりと刻みつけた思い出は、弟子たちを喜びで満たし、人々に伝える熱意に結びついたことでしょう。


要するに、イエス様のこの地上での出来事は、肉眼で見た人たちからは取り去られます。そしてこれからは、この目で見た人たちがすべての人に伝えることによって、イエス様の地上での出来事、イエス様のご生涯は、すべての人にとって意味のあるものとなったということです。


イエス様が天に昇られなければ、それはいつまでもこの目で見た人たちだけのものに過ぎなかったでしょう。けれどもイエス様は天に昇られました。天を見上げている弟子たちに、天使はこう話しかけます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1章11節)。これは、「あなたたちはイエス様の出来事を自分たちだけのものにしないで、人々に告げ知らせなさい」という呼びかけだったのではないでしょうか。


わたしたちも、イエス様のご昇天を、屋根の上から告げ知らせる弟子でありたいものです。そのための恵みを、今日のミサの中で、また遠足の時に願いたいと思います。