主日の福音2001,5,20
復活節第六主日(Jn 14:23-29)
イエス様の平和を生き、伝えよう
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。今日わたしが、皆さんと一緒に考えたいイエス様の言葉です。

すべての人が、平和を願っていると思います。家庭の平和、社会の平和、国の平和など、その人が考えている平和は、一人ひとり違うかもしれませんが、平和を必要ないと思っている人はいないのです。

でも、わたしたちは、平和な社会と、平和でない社会と、両方を見ています。両方を知っています。喜びと、笑いに満ちている家庭・社会があるのに、新聞やテレビを見ていると、事件・事故もたくさんあります。わたしの考えですが、ニュースを見ていて、事件・事故のない日を探すのは、難しいと思います。

平和だと感じている人たちと、平和を見つけることのできない人たちと、何が違うのでしょうか?そして、あの人は、平和を見つけることができる、この人は平和を見つけることができないと、決まっているのでしょうか?

私は、こう考えます。本当の平和は、一人ひとりの心の中、いちばん深いところに神様が与えてくださる。神様が与えてくださる平和を持っている人は、家庭の平和・社会の平和・国の平和を作ることができる。わたしは今日、そんなふうに感じています。

ある人は、心の中に、怒りをいっぱいためています。たとえば、私のことを、理解してくれないと思っています。誰も友達になってくれないと考える人もいます。怒りを心の中にためている人は、心に平和を持っていないのです。そしてその人は、平和を運ぶ人になることができません。

けれども、イエス様は今話した人、「心の中に怒りをためている人」にも平和を与えることができます。最初に話しましたが、イエス様はこう言っています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」。イエス様は、自分で話したことは、必ず実行します。できないことを話したりしません。心の中に怒りをためている人にも、「平和」を届けてくださるのです。

ところで、イエス様の「平和」と言っていますが、説明するのは難しいですね。いくつか、例を考えてみましょう。一つ目。悲しみを感じても、希望を失わない人は。イエス様の「平和」を持っています。その人は、イエス様が、きっと私を立ち直らせてくれると信じているからです。悲しみのために、希望を失う人と、悲しみを感じても、希望を失わない人の違いは、イエス様の平和をもっている人と、イエス様の平和を持っていない人の違いだと思います。

二つ目。悲しんでいる人、困っている人を助け、励ます人はイエス様の平和を持っています。悲しむ人に、希望を与える本当の力は、イエス様の平和からやって来ます。悲しむ人を励まし続ける力は、人間の力だけでは足りません。悲しむ人がわたしの助けを拒むかも知れません。それでも励まし続ける、希望を持ち続けて人を助けてあげる。その力は、イエス様の平和から来ます。だから、人を励まし続けることのできる人は、イエス様の平和を持っています。

三つ目。人を、心から赦すことのできる人は、イエス様の平和を持っています。ある人が、私に悪いこと(言葉や行いで)をしても、イエス様の平和をもっている人は、赦してあげることができると思います。イエス様の平和を持っていない人は、赦すことができないで、憎しみを感じたり、仕返しをしたりするでしょう。

三つ考えました。わたしたちは、三つの例に当てはまっていたでしょうか?もし、一つも当てはまっていなくても、イエス様の平和を願ってください。きっとイエス様は与えてくださいます。イエス様が平和を届けることのできない人は、いないからです。

最後に、もう一つのことを考えてみましょう。イエス様が、私に平和を届けてくださいました。嬉しい!わたしたちは、これだけでいいでしょうか。もう一つ大切なことがあります。それは、「他の人にイエス様の平和を届ける」ということです。今日、紹介した三つの態度を人に示して生きる人は、必ずイエス様の平和を届けることができます。そして、イエス様の平和が必要な人がたくさんいるので、その人々のために祈るなら、遠い人にも、ほかの国の人にもイエス様の平和を届けることができます。

イエス様の平和を保って生きる人になりましょう。そして、イエス様の平和を届ける人になることができるように、今日のミサの中で祈っていくことにいたしましょう。