主日の福音2001,5,13
復活節第五主日(Jn 13:31-33a,34-35)
何がどう新しいから新しい?

今日の福音で、イエス様は弟子たちに「互いに愛し合う」という掟をお与えになりました。それも、「新しい」とわざわざ銘打って与えたのですが、そのことは、わたしたちもよく考えておく必要があります。

イエス様以前に、「互いに愛し合いなさい」と命じた人はいなかったのでしょうか?イエス様がおいでになってから、2千年ですが、おそらく、この人間の長い長い歴史の営みの中で、互いに愛し合いましょうぐらいのことを仰る人が誰もいなかったとは考えられません。

旧約聖書の時代には、モーセが民に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟を与えています(レビ19:18)。どうも、「イエス様が初めて仰ったのだ」というような新しさではないようです。

新しいというとき、もちろんほかの使い方もあります。「この魚は新しい」と言えば、それは「新鮮」ということでしょう。少し、近いかも知れません。さらに、新しい仲間を迎え入れたとき、「わたしたちも新しくなりました」と言ったりします。新しいメンバーが加わり、新しい空気が入るということでしょう。これも、近いかも知れません。


イエス様の仰った「新しさ」は、きっと、新鮮に聞こえるということと、常に新しくされていくということとを踏まえた「新しさ」なのだと思います。

わたしたちはイエス様を通して、神が人を愛しておられることを知りました。それも、どのように愛しておられるのかを、イエス様を通して形にしていただきました。具体的に、拾ってみましょう。

神様は、人間をこの上なく愛しておられることを表すために、まず御子をお遣わしになります。御子が人となられたことで、御子を通してすべての人をご自分の子として愛そうとされました。


イエス様は弱い立場の人たちに、強く心を動かされました。姦通の女、目の見えない人、重い皮膚病の人、足の不自由な人、その他いろんな社会で隅に追いやられるような人に心を動かされ、奇跡を通して神がこの人々を深く愛しておられることを示してくださいます。


イエス様は外国人にも深い愛の眼差しを注がれました。サマリアの女、シロ・フェニキアの女など。また徴税人を弟子に選び、ザアカイと親しく交わります。悲しみに沈む人に希望を与えます(息子を失ったやもめ、ラザロを失ったマルタとマリア、娘を失った会堂長)。その愛は、聖書を読むたびに深まっていくことでしょう。


さてこの、イエス様がわたしたちに示してくださった愛に、わたしたちが触れ、本当にこの通りにしてみたいと、生活の中に取り込むとき、わたしたちが普段慣れ親しんでいると思っていた「互いに愛し合う」ということが、新たにされていくのではないかと思うのです。


例として、将棋の世界を挙げてみたいと思います。私が詳しいわけではなくて、皆さんが詳しいかなあと思って、例を引いております。将棋に詳しくなくても、羽生よしはるさんという人の名前を聞いたことのある人は多いと思います。この人は、将棋界に旋風を巻き起こしました。


中学生でプロ棋士になり、
25歳のときには、将棋界の七つのタイトルすべてを手に収めたこともありました。それは、誰もがなしえなかったことでした。彼のスタイルは、並み居る名棋士にも、「次に何をやってくるか分からない」とうならせるほどのアイディアがあるそうです。

将棋そのものは、別段新しいものではありませんし、羽生さんが現れるまで、天才がいなかったわけではありません。けれども、それらのプロ中のプロをうならせた、あるいは黙らせたのが、この羽生さんだというのです。


彼の登場は、将棋界にとって新しい出来事だったと思います。将棋そのものが新しいのではありません。昔から慣れ親しんでいるこの競技に、まったく新しいと言っていいほどのものを、羽生さんは持ち込んで、新しいものにしたのです。

この新しさは、イエス様が仰る「新しい掟」に通じるものがあると思います。イエス様は、わたしたち人間では考えられない愛の姿を示してくださいます。特に十字架上でご自分をお与えになった愛は、人間では考えつかないものです。報いや、お返しを期待しない愛の頂点が、そこにはあると思います。

イエス様の愛は、一つひとつが、画期的なものでした。その、ひとつ、ひとつをわたしたちが受け入れ、生活の中で取り組むとき、わたしたちが普段慣れ親しんでいる「愛の掟」が、新しいものとなっていきます。イエス様が示された愛を汲み尽くしたという人は、誰もいないわけですから、イエス様のわたしたちへの愛を発見するたびに、わたしたちが実践する「相互愛・隣人愛」は新しくなっていくのでしょう。

「わたしがあなたがたを愛したように」「互いに愛し合いなさい」これからも、わたしたちがイエス様の愛を学び、そこに生きていくことで、生活の中で表す愛を新しいものに進歩・発展させていくことができるように、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。