主日の福音 2001,5,6
復活節第四主日(Jn 10:27-30)
そのことばには曇りがない
今日の福音で、私が強く感じたことは、一つひとつの言葉に、曇りがないということです。力強い一つひとつの言葉は、わたしたちに安らぎと勇気を与えてくれます。
取り上げたいのは、イエス様の言葉と、羊にたとえられている人々、両方です。それぞれに分けて考えてみましょう。
「わたしは彼らを知っており」と仰います。ヨハネ福音書で、「知る」ということは「愛する」ということに通じますが、イエス様はご自分の羊である人々を知り、愛しておられます。
イエス様が確信をもって話しているのは当然ですが、この呼びかけは、イエス様に愛されている人にとっても慰めになります。「私のことを、イエス様は知っておられる。イエス様は、私を愛しておられる」。そこには、イエス様は本当に私が置かれている場を知っておられるのだろうか?という不安や疑いを、完全に取り払ってくださる力強さがあるのです。
「彼らは決して滅びず」「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。滅びる滅びないということで言えば、この世の中のものすべてが滅び去るものに属しています。
形あるものは壊れ、記録は塗り替えられ、歴史は繰り返す。永遠に続くものなど、ひとつもないわけですが、イエス様に愛され、イエス様を通して永遠のいのちをいただいた人たちは、決して滅びないのです。この世のものではない、永遠なもの、イエス様だけが与えることのできる、神からの賜物をいただくので、その人は滅びないのです。
今の世の中は、ますます滅びないものにあこがれる時代と言えます。かつては揺らぐことのなかったものが揺らいでいるからです。家族の絆、目上の人に対する尊敬、命の大切さなど。どれも、努力しなくても守ってもらえるものだと思っていました。
ところが、今は家族の絆が揺らいでいます。年長者であるそのことだけで尊敬してもらえなくなりました。命をあまりにも簡単に考える青少年が増えてきました。そういう、滅びるはずがないと思われたものさえ、この世に属する限り、永遠ではないと思い知らされます。
けれども、イエス様は、ご自分の持っておられる永遠の命を通して、滅びないものを与えてくださいます。イエス様の与えてくださる永遠のいのちに土台をおいた家族の絆、イエス様の命の上に立った人間関係、いのちへのまなざしは、いつの時代にも通用する力強さをもっているのです。
一方で、イエス様は羊の態度も力強いと仰います。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」「彼らはわたしに従う」。滅びるものに属しているわたしたちに、どうしてそれほどの信頼を寄せてくださっているのでしょう?
どうも、この点については心配があります。「わたしたちは、イエス様の声を聞き分けることができているだろうか?」「わたしたちは、そんなに忠実にイエス様に従って生きているだろうか?」
私の方から考えると、確かに聞き分けているという自信もないし、忠実にイエス様に従っていると言い切る力も持ち合わせていません。イエス様はどうしてここまできっぱりと言い切れるのでしょうか。わたしたちの不足分を、どうやって補ってくださるというのでしょうか。
それは、先にイエス様がわたしたちを知り、愛してくださった。これ以上ないというほどにご自分を与えつくし、永遠の命にあずからせてくださったことによります。
わたしが、胸に手を置いて考えると、とてもイエス様の声を聞き分けているとも言えないし、忠実にイエス様に従っているという自信もないのですが、その不足分は、深く愛してくださったイエス様が満たしてくださるのではないでしょうか。
「あなたをわたしは深く知り、深く愛しているよ。だから、あなたはわたしの声を聞き分けることができる。信じて、よく耳を傾けなさい」そう呼びかけておられるのではないでしょうか。
聞き分けることができるだろうか?従っていくことができるだろうか?イエス様が、大丈夫、できるよと言ってくださっています。わたしたちには、自分で言ってのける力はないのですが、わたしたちの不足をイエス様が補ってくださるなら、わたしたちにも力が与えられると思います。
イエス様の自信に満ちた言葉、確信に満ちた言葉に信頼して、「あなたは、わたしの声を聞き分けることができるし、信じてついていくことができるよ」という招きを、喜んで受け入れることにいたしましょう。