主日の福音2001,4,29
復活節第三主日(Jn 21:1-14)
その夜は何もとれなかった

今日朗読された福音の箇所は、復活したイエス様と出会った弟子たちが、不思議な漁を体験する場面でした。弟子たちは、網が破れそうになるほどの大漁を目にして、岸に立っておられる方がイエス様だと気付くわけですが、どうも私たちは、153匹もの魚が網にかかった、そのところだけに目がいってしまって、ほかの周りのことには注意を向けなくなる可能性があります。

大漁を通して、弟子たちの目は徐々に開いていくわけですから、たくさんの魚がかかったことはもちろん大切なのですが、ここに盛られている話はそこだけではありません。今日は、大漁に至る直前の弟子たち、特に心の動きについて考えてみたいのです。

よく読み直してみると、彼らは前の日の晩に漁に出ています。「わたしは漁に行く」と言ったペトロの思いはどうだったのでしょうか。「わたしたちも一緒に行こう」と言って、連れだって出かけました。なのに、「その夜は何もとれなかった」わけです。

夜中の肉体労働は、そうとうつらいと思いますし、夜が明けて、お互いの顔がようやく見えるようになってくると、何もとれていないときは、なおさら疲れが出てくるのではないでしょうか。夜という、時間の闇は、朝になれば必ず去っていきますが、彼らの心は、朝になってもまだ夜のまま、闇の中にいただろうと思います。

私は、このときの弟子たちの心境は、とても大切ではないかと考えています。弟子たちが、せめてその日の糧になる程度の漁でもあっていれば、そのあとの大漁の奇跡を見ても、別の思いを持ったかも知れません。

何もとれなかったから、何も希望を持てずに陸に上がろうとしていたから、不思議な大漁は、岸に立っているその人がイエス様だと、気付かせてくれた、つまり、ここに立っているのは、これまで何度も、希望のないところに希望を与えてくださった、あのイエス様なんだと気が付くことになったのではないでしょうか。

夜に出かけて、何もとれずに、朝がしらみかけて家路に着く。これは、体験したものでないと分かりません。いかに神父であっても、実際に夜に漁に出て、何もとれずに朝帰りをしてみないと分からない。そう中田神父は無理矢理こじつけまして、昨日ですね。夜10時から、太田尾の波止場に、出かけたわけですよ。

ここで何かが釣れたら、これは弟子たちの深い失望感を体験することはできませんから、こんなデタラメな釣り方では、とてもミズイカは釣れないだろうという、そんな時間の過ごし方をして、すこーし東の空が明るくなってくる頃まで、波止場で漁をしてきました。

はーーーーーー。だめか………………。釣れませんでした。道具を肩に背負って、とぼとぼ司祭館に帰ると、地域のおじちゃんおばちゃんは早起きです。「あらー、教会の先生、何か釣れたですかー?」「釣れとらんわい」と言いたかったですが、ていねいに、「いやあ、ダメでした」と言って、その場をやり過ごします。どんなに作り笑いしても、ショックは隠せないわけですから、こういう中では、確かに自分を見失い、希望も何も忘れかけるのだろうなあと、私も体験としてよく分かりました。

ものの本によると、153匹の魚は、当時の弟子たちの暮らす世界で知られている限りの魚の数ではないかと言われていまして、これはまた、全世界の人のことも言っているのではないかとも言われています。イエス様にもう一度自分を任せきって、自分の持ち場で精一杯生きるなら、それは思いがけない実を結ぶ、ビックリするような収穫となるということを言っているわけです。しかも、網は破れそうになるほどの結果になって返ってくるというのです。

たぶん、私のつたない奉仕も、この大島の中で153匹の恵みとなって帰ってくることでしょう。昨日の晩に、なーんにも釣れなかったショックを味わいましたので、あとは、イエス様が「こうしてみなさい」と私を使ってくださり、私は、「そんなことで本当にうまくいくかね?」などと言うつまらない計算を捨てて、全面的に導きに身を任せて奉仕するとき、結果は予想をこえる大漁になるのでしょう。

わたしたちの一生涯にも、同じことがあると思います。一昼夜頑張っても何もとれなかった。何も実を結ばなかった。でも、その無駄と思えるような時間と労力を通った人だけが、イエス様の声にすべてを委ねることができ、イエス様によって大漁をこの目で見て、「この私の人生に実りをもたらしてくださったのは、主だ!」という確信を持つのではないでしょうか。ひとつの団体、ひとつの事業、ひとつの教会の歴史の中でも、同じことはあるのだと思います。

これまでの人生の中に、まったく実を結ばなかったと思えるような、不毛な時間があったでしょうか?イエス様はきっと、その直後に声をかけてくださっています。そして、その時すかさずイエス様にすべてを委ねた人だけが、あなたの人生の中に、本当の実を結んでいくのです。

案外、今日の糧だけは確保しておかねば、とか、損だけはしないように生きていかねばという生き方は、イエス様との出会いに気付くこともないのかも知れません。