主日の福音2001,4,14
復活徹夜祭(Lk 24:1-12)
闇を照らす光が現れた
主の御復活、おめでとうございます。今日のこの日のために、聖木曜日からの三日間、典礼にずっとあずかってくださった方は、イエス様が私たちのために、どこまでご自分を与え尽くしてくださったかを、よく学ぶことができたと思います。今日私は、ミサのはじめのほうで祝った「光の典礼」(本当は「光の祭儀」と言うのですが)から話に入っていきたいと思います。
今日、例年のミサの時間から1時間遅らせて、7時半にミサを始めたのですが、正解だったと思います。第一部の「光の祭儀」を、じゅうぶんに味わうことができました。例年の、6時半で始めていたら、明るすぎて本来の意味を失ってしまっていたことでしょう。
この、真っ暗な中で静かに典礼を始めたわけですが、暗闇は、金曜日に亡くなられたイエス様を表していました。手元を確かめることすらできない暗闇。それはそのまま、私たちが、イエス様なしには、この世を歩くことができない、早く、光であるイエス様に照らしていただきたいという気持ちに私たちを向けます。
暗闇は、イエス様の死を表すだけではありません。じつは私たちも、あの闇の中に沈められていました。誰も、この暗闇を破ることができない中で、イエス様は光として現れて、この暗闇を払い、私たちの心を照らしてくださったのです。
今、私たちは光の中にいます。もちろん、電気がこうこうとついているのも、光の中ですが、私たちの心の中を照らしているのは、まぎれもない、イエス様の光です。この光が、今日私たちに与えられたことを喜ぶのです。
朗読された福音に移りましょう。イエス様がお亡くなりになった直後の、日曜日の朝の出来事でした。登場人物すべてが、暗く沈んでいました。もう少し考えると、一人ひとりが包まれていた「暗闇」は微妙に違っていて、婦人たちは沈んではいましたが、イエス様の遺体に手当てをしに行こうと出かけましたから、「行動する」だけの力は残っていたのだと思います。ところが、弟子たちはもう絶望の淵に沈んでいたのか、何もする気力がありません。
婦人たちには、イエス様へのかすかな希望があったので、いちばん最初にすばらしい出来事に出会いました。天使たちがイエス様の復活をお知らせしてくださったのです。婦人たちは喜び、弟子たちに一部始終を話しに行きます。
弟子たちはどうだったでしょうか。かなり、参っていたのではないかと思います。婦人たちの言葉を聞いても、それがたわごとのように思われたといっています。きっと、弟子たちはイエス様と深くつながっていただけに、置かれていた暗闇も深かったのでしょう。
ここには、私たちへの教訓も含まれていると思います。今日のこの日を迎えるまでに、私たちはいろんな深さで、暗闇を抱えていたのではないでしょうか。生活に喜びがないとか、日々降りかかる問題に疲れているとか、親身になってお世話しているのに、ちっとも喜ばれないとか。いろんなことで心の闇を抱え、それを照らしてもらいたいと願って、ここに集まったのだと思います。闇の深さは、それぞれ程度が違っていたのでしょう。
けれども、イエス様は、どんなに闇が深くても、その闇が表面的でもですが、光として、私たちを照らしてくださいます。今日、完全に取り去ってもらうことのできない人もいるかもしれません。実際弟子たちは今日完全に喜びに包まれたわけではありませんでした。けれども最後には、イエス様の復活が、心のすべてに届き、いっぺんの暗闇もなくなっていったのです。
これは、私たちへの教訓となります。たとえ、イエス様の光であっても、私たちが閉ざされている闇があまりにも深ければ、簡単には届かないかもしれません。けれども、イエス様の光は、私たちの心をかならず照らし始め、最後には完全に照らし尽くすのです。
復活したイエス様は、暗闇を照らす光として今私たちのもとにとどまっておられます。まずは私たちがこの光をしっかりと心にたずさえて、光をともし続けましょう。そして、一人でも多くの人に、このキリストの復活の光を届けることができるように、これからのミサの中で続けて願っていきましょう。